時計塔の魔女が、孤児院に手下を遣わした。
 その報せが人づてに広まったとき、カラルはいの一番に、ひ弱な親友ジェドのことを心配した。のんびり屋で能天気、けれども院の子供のうちではつくりの良い顔を持つかれのことだから、すぐに目をつけられてしまうだろう。そうして時計塔に連れてこさせたかれを、塔の魔女は頭からむしゃむしゃばりばりと食らうのだ。
 うつくしいこどもの血をすすって、魔女たちは永遠の命を得るのだと、カラルは院長の寝物語で聞いていた。そのおぞましさに寝小便を垂れたことだって幾度もあったから間違いはない。だから孤児院の掃除の時間、ひとりで窓を磨いていたかれを捕まえて、カラルはひっそりと耳打ちしたのであった。
「いいかジェド。魔女の手下が来たら、庭の茂みに隠れて、ぜったいに見つからないようにするんだぞ」
 ジェドは考えすぎだよとカラルを笑ったけれど、いざ魔女の手下が院の扉を叩く段になれば、さしものかれも幾ばくかの緊張をみせた。
 顔を見せるのは筋肉隆々の大男か、つり目の小悪魔か、はたまたうつろな表情の老人か――先だってのカラルの想像は、しかし扉が開いたとたんに裏切られることになる。孤児院を訪れたのは、ゆるやかにうねる金髪をひとつに括った妙齢の女性だった。長い睫毛に覆われた双眸で院の子供たちを俯瞰して、ふうんとひとつ息をつく。その視線が、庭の端で突き立っていたジェドに突き立った。
 まずい、とカラルは走った。魔女の手下は子供たちを油断させるために、わざと無害な女性の姿をして現れたに違いないのだ。――くそ、まんまと騙されるところだった、油断も隙もない。カラルはジェドに歩み寄ろうとした彼女の前に立ちはだかって、一喝。
「ジェドに手を出すな、魔女の手先め!」
 女性はきょとんとして棒立ちになり、院長があんぐりと口を開ける。最初に沈黙から抜け出したのは、カラルの背後に立っていたジェドだった。
「ごっ、ごめんなさい、ぼくのともだちが……」
「ジェド、隠れてろ!」
「なにを言っているんだよカラル! ぼくが時計塔に行くのは、もう三日前から決まっていたんだぞ」
 いいから、とかれを押しのけて、カラルはずいと前に出る。ジェドを盗まれるぐらいなら、おれ自身が魔女のところに行ってやる。そうしてきっと退治してやるんだ、物語の勇者のように。黒陶の目をぎらぎらとさせて、魔女の手下を睨みつけた。
「……ううん、参ったなあ」
 とぼけたふりで頭を掻いた女性が、埃の舞う天井を見る。眉を寄せて熟考。そうして最後に伝えた提案に、カラルはごくりと唾を呑んだ。
「とりあえず、ふたりとも連れて行こうか。あとは“魔女”さんが考えてくれるだろうからさ」

 時計塔の魔女というものの姿を、カラルは一度として見たことがない。魔女は塔脇の小屋にこもっていて、昼と夜との鐘をつくとき以外にはめったに外に出ないという。
 だからこそ、その所帯じみた――よく言えば質素、悪く言えば貧相な小屋に連れてこられたとき、カラルはすっかり言葉を失ってしまった。なにより驚いたのは、魔女が存外に若い、未だ齢三十にも届かぬであろう容姿の女性であったことだ。
 きつく寄せられた眉に、笑みの気配もない口元。背に垂れる金の三つ編みは地を擦らんばかりの長さを持つ。彼女は連れてこられた少年二人を見下ろすなり、「おい」と先導の女性を詰った。「一人でいい、と言ったはずだが?」
「ごめんって、どうしても離れたくないっていうものだから……ねえ、両方とも弟子にするっていうわけにはいかないかな」
「そんな食い扶持がどこにある」
「……弟子、ですか?」
 おず、と口を出したジェドを、魔女は横目で一瞥。ややあって溜息をついた。
「時計番の後継者を探していた。いつまでもひとりで続けていくわけにはいかんからな。仕事を教えるなら早いうちに越したことはない、孤児のうちからひとり、選ぶつもりでいたわけだが」
 このざまだと棘を刺す。身を縮めていた女性を見やった。
「おまえが連れてきたんだ、おまえが面倒を見るんだな。ちょうど掃除の仕事を人に譲る頃じゃないか。もう若くないだろう」
「ひ、ひっどおい! 私だってまだまだ働けるよ! それに家に連れ帰ったりなんかしたら、あの人にどんなに嫌味を言われるか……」
「知ったことか。今すぐ片方を返してくるか、おまえが引き取るか、ふたつにひとつだ」
 女性がううと唸り始める。少年たちを見下ろして、唇の先でつぶやいた。
「これで孤児院に帰したりなんかしたら、ほんとに魔女みたいじゃない……」
「……魔女?」
 訝しむ魔女に、女性は半ば自棄になって「そうだよ、魔女!」と首を振る。
「時計塔の魔女にはお友達を任せられないっていうから、止めた子ともども連れてきたの。……わかったよ、片方はこっちでなんとかするから」観念したように息をつき、それで? と女性は少年たちの肩に触れた。「時計番さんはどちらを引き取るつもり」
 魔女は子供たちを睥睨する。唇を結んだカラル、背を丸めたジェドとそれぞれに目を合わせ、問いかけた。
「私を魔女呼ばわりしたのはどっちだ」
 ぶっ、と女性が吹き出した。ジェドがちらりとカラルを見やる。身を凍らせたカラルを、魔女は「おまえか」と睨みつけた。
「ならおまえを引き取る。こき使ってやるから覚悟するんだな」
「お、おれを食うつもりか」
「使えなければ考えるかもな。名前は」
「…………カラル」
 それならこの子は私が、とジェドを誘い、一言二言のうちに女性が小屋を後にする。あとに残されたのはカラルと、彼を凍てつく瞳で見つめる魔女のみだ。彼女は机に放られた懐中時計を確かめ、ふん、と鼻を鳴らす。正午が近かった。
「まずは仕事を見せることからか。カラル」
 呼ばい、立ち上がった魔女の歩みを、長い三つ編みが追いかける。強い視線から解放されて、カラルはようやく彼女を睨みつけるだけの胆力がわいた。親指をきつく握り込む。
「……人食いの魔女め、見てろ。おれがいつかおまえを倒してやるからな。手ぶらだからって見くびるなよ、武器なんてどこにでもあるんだ、たとえばこの時計塔の針だっていい」
 魔女は胡乱げにカラルをふり返る。針か、とひとりごちて、そこで初めてうっすらと――わずかに挑戦的に、笑ってみせた。
「やってみろ、できるものならな」
 ち、と懐中時計の分針が動いた。
 彼女の笑みに差した影――その理由にカラルが思い至るのは、まだ数年もあとのことになる。



文:梶つかさ(COMITIA115 ペーパー掲載文より)