「遺物語りの時計職人」
大陸南西部――そこには西方辺境より連なる大山脈に背を抱かれて、海に鼻先を突き出した半島がある。大山脈の流れを継ぐ嶮しい山々の合間には幾多の湖沼が散らばり、中でもとりわけ大きな一つから下り落ちた水流は、他の湖や傍流を呑み込みながら扇状地に、続いて平野に拓け、中洲を囲む複数の河川に分かたれたのち、大海に出るのだ。本流を成す河によって、半島はおおよそ二分されていた。河越しに対面する二つの地区は、北ハレバッグノス、南ハレバッグノスと呼び分けられる。北地区には伝統的な半島文化が、南地区には移民混じりの文化が栄えていた。
ハレバッグノスには、この二つの街を一望できる時計塔があった。
王政より前に存在する古びた建築物である。もとは古代都市の神殿の一部を成した尖塔とも、罪人を閉じ込めていた贖罪の監獄とも伝えられるが、その起源は定かではない。今のハレバッグノスに伝えられているそれは、絢爛豪華な色硝子の文字盤と街中に鳴り響く大鐘を備え、数百年の時を経て尚、北地区の街に泰然と居座っているのである。
「アールバーンの革命、シセリリアの大会議、キュストラスの嘆きの月。今や歴史の証人と言っても過言ではない。その時計の針を、若造、お前は止めろというのか?」
「お言葉ですが、氏よ――時代がそれを許さないこともあります。先の大洪水を受けて近隣の街や村々、果ては西方辺境の少数民族に至るまで、人々は皆、助けを求めてハレバッグノスの郊外に押し寄せている。今のハレバッグノスの財政に、動いても動かなくても同じような針に金をかける余裕はありません!」
事務机を隔てて、二人の男が対峙していた。
一人は金髪に小麦色の肌をした青年である。かっちりとした議員服に身を包み、眉間にこれでもかと皺を寄せた青年は、堅実そうな眼差しに疲労とうんざりしたような雰囲気を漂わせている。
対する一人は壮年の、しかも青年よりもずっと背の高い男だった。半島由来の浅黒い肌に高い鼻、白髪交じりの髪と鋭く尖った髭、青年を射抜く目つきは鷹のようだ。古ぼけた外套に身を纏っていたが、その上からもわかるほどにがっしりとした体つきで、青年との間に机が無ければ、今にも飛びかからんばかりの気迫を滾らせていた。
「……何度も言うぞ。あの時計を止めるな」
重低音を震わせる男に、しかし年若い議員は、臆するふうでもなく言い放つ。
「何度だってお返ししましょう、氏よ。賃金が払えないと言っています。運営資金も満足にまわせない、修繕だって、今は十分な費用を出せません。貴方も大概しつこい方ですね。何だって毎回、同じ問答を繰り返さなければならないんです?」
議員は明らかに苛立っていた。ただでさえ膨大な仕事に追われている彼にとって、男は仕事を妨害しに来る厄介者にしか思われなかった。
突然、ずい、と男は身を乗り出した。覗き込まれるかたちになって、青年がぐっと首を反らす。
「聞け」
威圧するように声が降る。
「意味があるから、言っているんだ。……若造、おまえの血の礎となった男が――始まりの王が、この街を支配するより古くから、存在している塔だ。どうして残されてきたか、その意味をわかっているのか」
「少しは。けれど、貴方よりも多くを。――時計番どの、貴方がこの街に流れ着き、代替わりをしてたったの一年半しか経っていない。そのみじかな間に、一介の管理人に過ぎない貴方が、あの塔のいったい何を知ったというんですか」
議員は半ば挑戦的だった。知らないことを知っている者が見せる、優位を理解させようとする口調。けれど、男の暗い眼差しは揺らがなかった。
「……あの時計塔のことなら、何だって知ってる。骨の髄が腐るほどに長い付き合いだからな」
齢を重ねた低い声は一瞬、翳りを帯びる。
青年が追求する間を与えず、男は机から離れると、背筋を伸ばした。踵を返し、ひらりと手を振って投げやりに言う。
「勝手に動かす分には良いんだな」
「……街の親切な紳士が、善意で動かしてくださるのなら何も問題はありませんが、ね。言っておきますが修繕費は出せませんから!」
「わかった、わかった。また来る」
「もう来なくて結構です!」
議員の心からの叫びは、ばたんと閉じられた面会室の扉に遮られた。男は小さく息をついて、「待たせた、テトク」と扉の脇に声をかける。
廊下の壁に凭れ掛かっていた、作業着の老人――皺くちゃな顔に小さな眼鏡かけ、ぼうぼうの髭を生やした好々爺――は、男の姿を認めると、にかっと破顔した。
(真空中)