挿話
(助けてほしいのは、ね……)
 壁際に預けていた背を音もなく浮かせる。体が傾くのも気にせず、夢遊病の気でもあるかのようにふらりと足を出した。
 廊を踏めば響く靴音も、容赦なく宮殿を叩く雨音も、遠くに聞く誰かの声々もみな、聞こえはすれども意味をなさない。ふと年若きアーシャの境遇が想起されたが、それもまどろむかように流れていった。ほかに思うことがあったせいか。
 救いを乞うのは、貧しきも富めるも同じ――薄い扉を隔てて聞いた言葉が、思いのほかのどにつかえて流れようとしない。愚かだと笑い飛ばせないのは、花嫁の声があまりにも真に迫っていたからだ。
 ならば、と、彼は思う。自分があのとき、助けを求めていたなら。
(助けてなんて言ったら、救われたのか)
 馬鹿馬鹿しいとかぶりを振った。所詮は持つ者のみが抱く絵空事だ。持たざる者に救いはない。ひとときでも夢見た自分に嫌悪すら感じた。
 歩み、進む。雨の降る日の宮殿はこころなしか厳かだ。圧倒的な音の粛正に、ひとは為すすべもなく部屋に引きこもるほかない。それに併せ、普段せわしなく動き回る修道女たちの姿も見かけないでいるのだ。今頃は総動員で夕食の準備に取りかかっているのだろう。ひとり仲間が倒れたとて夕食どきは変わらず訪れるのだから。
 投げつけられた布を引きかぶって廊下を行けば、先ほどまでひっきりなしに滴っていた雨粒もなりを潜める。厄介なことになったものだと布の端を握った。面識のないに等しい相手を訪ねねばならない理由ができてしまった。
 どうすべきかと振り返った向こうに、当然、人の気配はない。立ち止まっても、抱えこんだ外套の重みが両腕に伝わるのみだ。その下にくるんだ彼女の、その必死の形相を思い起こし、自然と苦い顔になる。
(でも)
 くすぶったままの言葉が消えてくれない。重いものを抱えたような気がして唇を噛んだ。
 耐えようとするなら。なおも強くあろうとするなら、彼女の言い分が返されるべくは、他ならぬ彼女自身だ。
(お前自身は、どれだけ苦しくても)

 助けて、とは、言わないんだな。





「それでは、私は失礼いたします。ソニア様もご無理はなさいませんように」
「ありがとう、エリーゼ」
 礼は言えども了承の言葉はない。いつものことだ。心の内でため息をつきつつ、エリーゼは一礼と共に書庫を出る。
 人違いの花嫁を迎え入れてはや二週間が過ぎた。今日も彼女は朝から書庫にこもり、眠そうな目をこすってエリーゼの講義を聞いていた。エリーゼのいない午後も、日が暮れた後も、変わらず彼女はここで本をめくっている。毎日毎日、飽きもせずよくやるものだと感心するばかりだ。
(不思議な方だ)
 思えば自分など、書物の類と向き合うことが嫌で嫌で仕方がなかった。文学書と戦おうものならものの数分で眠りこけてしまうのだ。面白みのわかる域にたどり着けば楽だとはいえ、ソニアのように勉学を始めて間もない身でそれを解するのは難しいことだろう。
 ならばなにが、あの方を動かすのか。
 書庫の扉に背を預け、しばし。天井を見上げていたエリーゼはくすりと笑みを浮かべることになる。
(考えるまでもないことか)
 物音を漏らさぬように身を正す。正直なところ、今すぐにでもあるじのもとへ報告に向かいたいとうずうずしているのだ。ソニアがどれだけ身を粉にして勉学に励んでいるか、切々と語って聞かせてやりたいのはやまやまだが、護衛に立候補したからにはここを離れるわけにはいかないだろう。
 ソニアとラクスのあいだにどんな会話が交わされたのかエリーゼは知らない。だが、手持ちぶさたにしていた花嫁は意思を持って書物に向かうようになった。そんな彼女に半泣きで教えを請われれば手助けをしないわけにもいくまい。今では、教師の立場を楽しんでいる自分にすら気付いてしまうのだ。
(いつか、報いられる日が、来るのだろうか)
 時として、実を結ばぬ努力もある。武芸に打ち込んだ娘がみな、エリーゼのように剣を握って生きられるわけではない。
 だが、願ってしまう。
 懸命に生きようとする少女の目は、弱く、儚い。だからこそ。
(あの方に、幸あれ)
 彼女が笑えるよう。傷ついてもなお、立ち上がる力を抱けるよう。偶然に導かれて花嫁となる彼女に、女神の祝福を。
 ――幸あれと。





 神殿騎士棟の前庭は、にわかに活気だっていた。その活気はみな騎士たち自身によるものである。女神を信仰し、平和を愛するアーシャラフトで剣技における勝負を好むのは彼らのみだ。ちらほらと騎士には見慣れないものが見えるのは、それでも、彼らに扮してこっそりと試合を覗いている者がいるからであろう。
 騎士たちのほぼ全員がその場に集合していると言っていい。来たる総大司教とアーシャの出立に向け、彼らははその護衛の座を争って模擬戦を繰り広げているのだった。
 ときおりそんな催しがあれば、腕を磨く動機付けにもなる。真剣に護衛を狙う者も当然いるが、腕試しとして参加する者がいるのもまた当然だ。

「――そこまで!」

 高らかに声がし、審判の左手が掲げられる。尻もちをついた相手の首元に刃のない剣を突きつけていたレオンハルトは、無言でその腕を引いた。周囲の喝采が上がるが、当の本人は無関心を貫き通す。
 ほぼ同時に聞こえた試合終了の合図に顔を向ければ、エリーザベトが難なく一勝をあげていた。当然だ、と思うのは、いまだなおチェルハの誇りが胸のうちにあるためだろう。
 家を出た彼女が唯一、自らの意で身につけたのが剣技だった。女だてらに実力はある。貴族あがりの彼らにそうやすやすと遅れは取らない。なにより、あれは自分の妹だ。
「レーオン、快勝じゃねえの? どこまで行くつもりだよおまえ」
 聞き知った声に呼びかけられる。騎士たちのなかでレオンハルトと歳を同じくするのは、彼ともうひとりだけだ。今は剣技を競う相手とはいえ、宿舎に戻れば気の置けない仲間である。
「大司教様着きが十六人、アーシャ着きが五人だろ。お前なら入っちまうんじゃないか」
「高望みはしない主義だ。全力は尽くす」
「へえへえ、言うと思いましたよ。あっちもだいぶ勝ち進んでるみたいだし、」そう言ってエリーザベトに目をやる。「こりゃ兄妹決戦もあるか?」
 何気ないふりを装って試合表を見る。このまま二人が勝ちあがっていけば、確かに、決勝試合で当たることになるだろう。
「楽しみにしてるぜー。なあ、実際どっちが強いんだ」
「さあな」
「さあなっておまえ、」
 そこで会話は中断される。レオンハルトが剣に手をかけ、ふたたび簡素な試合場へ戻っていったからだ。切り上げるにはちょうどいい頃合いだと判断したためでもある。なんだよー、と不満の声が聞こえてくるのも無視し、新たな相手と向かい合う。
 どちらが強いのか、などと、考えたこともなかった。
 手合わせをしたことが無いというわけではない。だがそれも幼少のころのことだ。もう遠い、家を出る前の話である。

「――はじめ!」

 声に伴い剣を構える。片手に携えた剣は慣れた重みを腕に伝え、それに伴い抗いようのない高揚感が湧きあがる。切れない緊張の糸に吊られて背筋は伸び、耳の奥にはきいんと高音がこだまする。
 エリーザベトには、それを、捨てることができなかったのだ。
 ぶつかりあう。剣戟のなか、家を出た日を思う。妹を追うと言ったときは激しい反対にあったものだが、今まで意見ひとつ言わなかったレオンハルトの初めての我がままに、結局家族は折れるほかなかった。そのとき彼にまとめられようとしていた縁談があったことを、エリーザベトは知らない。知らなくていいことだ。
 女という身分はどこまでも窮屈で、哀れだ。レオンハルトはそう思う。チェルハの家に生まれたならばなおのこと。世に二人といない妹の行く先が絶望であったなら、救い上げてやるだけの覚悟はあった。
 しかし、それも必要なかったらしい。
 剣がぶれる。大ぶりに振られた腕のあいだに、わずかなすきが生まれた。自らの剣を突きだす余裕はある、動ける、だが。

「――そこまで!」

 首元に触れた模擬剣の冷たさを感じながら、レオンハルトは剣を収めた。明らかな落胆の声はほとんどが若者たちのものだ。同年代の騎士が総大司教の護衛に着くことを誇ろうとしていたのだろう。
 隣で行われる試合に目を移すと、エリーザベトが同様に敗退するところだった。彼女の相手はぽかんとした表情で審判を見つめている。勝つとは思わなかった、とでも言いたげに。
 なるほど、似た者同士だ。レオンハルトは微かに唇をつり上げる。
 ここが分かれ目だった。総大司教とアーシャのどちらを護衛するかが決まる試合だ。当然のごとくふたりは剣を引き、あと少しのところで――負けた。
 どこまでも自分たちは騎士であり、守護者だ。仕えるべき者のため、守るべきひとのため、剣を握る。それを至高としている。妹への憐憫からあるじに捧げる忠誠へと、思えばすでに胸の信念は色を変えていた。
 チェルハの血は息づく。ところは違えど、騎士の剣に手を置く限り。





 ふうわりと浮いた意識に体がついていかない。重いまぶたは閉じたまま固まってしまったかのようだ。そのまま、やわらかな日差しが意識すらも曖昧にしようとする。
(こんなに眠ったのは……いつぶりだ)
 考える。しかし頭のなかは思うように働かない。まあいいか、とふたたび眠りに就こうとするのは、よほど疲れがたまっていたためだろう。
 ラクスがナヴィアに暮らすようになってから数年が経つ。未だに満足に眠れたことはない。聞こえすぎる耳が小さな物音すらも敏感にとらえ、休息を妨げようとするからだ。木々のざわめき、風のそよぐ音などはまだいいほうで、時には人の噂話すら聞こえてくるのだから心地よく眠れようはずがない。
 うまく疲れをとるすべを身につけてはいた。だがここ数日というもの、花嫁との婚儀を控えたラクスは働きづめでいたのだ。倒れないようにとエリーゼに注意を受けたのも一度や二度ではない。
(いつから、眠って)
 まだ仕事が残ってはいなかったか。そんな懸念が湧きあがって。

 ――とすん。

 かすかな物音がきっかけだった。
 眠りの縁にいたラクスはぴくりと眉を跳ねあげ、ややあってゆっくりと体を起こす。はじめに感じたのは光の温度で、違和感に首をかしげることになる。いつから眠っていたのだろう、と同じ問いかけをくり返して、二度目の音に体を震わせた。
(そうだ)
 レオンとエリーゼがメリアンツへ向かい、あまり出歩かないようにと忠告されたのが今朝だった。彼らの代わりにと付き添いに選ばれた少女は、まだこの部屋にいる。
「寝ていたのか。僕は」
 音のほうへ顔を向け、掠れた声で問えば、うなずく気配があった。
「はい。ぐっすりと」
「きみはいつからそこにいる?」
「ええと、ラクスが、眠っているあいだに」
 ならば、その足音にさえ気づかなかったということだ。彼女よりもよほど共に過ごしていたレオンやエリーゼでさえ、近寄れば気配を感じるというのに。
「そう、か」
 やっとのことで返事をして、目をそらす。不自然な間が空いたことを悔やめば、少女が怪訝そうに問いかける。
「どうかしましたか?」
「いや、なにもない」
 ――安心していた。
 それを認めるには、彼女を知らなすぎた。
 少女が困惑するのが思い浮かぶようで、ラクスは唇を噛んだ。戸惑っているのは彼も同じだ。
「……本は読み終わったのか」
 尋ねたのは、だから、決して興味が湧いたというわけでは。