ひと握りの光だけをきみに
 くらんだ視界に、おぼろげな影が揺れている。

 体調不良に悩まされるようになったのは、一月ほど前からだった。
 何を食べても味が感じられない。咀嚼が億劫になり、最近は料理の匂いをかぐだけで嫌悪感を覚えるようになっている。ふいに襲いかかる気だるさはいつまでも抜けず、吐き気を覚えることも少なくなかった。
 隠し通そうとしてはきたが、日夜そばに控えるエリーゼにはさすがに気付かれていたのだろう。ついに我慢が効かなくなって腰から崩れ落ちたときも、彼女は迅速にソニアを背負いあげると、おののく修道女たちを言葉少なに遠ざけたのだった。
 花嫁さま、花嫁さま。懸命に自分へ呼びかける声が、さざ波のように寄せては返した。遠のこうとする意識をやっとのことで繋ぎとめる。眠らずにいられたのは、自分を背負う女騎士が、絶えず腰を叩いていてくれたからだった。
「すぐにクラウディア様をお呼びいたします。どうか気をしっかり」
(クラウディア、さま……?)
 おかしいな、と思う。
 倒れたのはナヴィア宮殿の中だった。クラウディアがこちらへ来ているという話も耳にしていない。どうして彼女の名が出るのだろう。――そんなことより、今はあの人に、手を握っていて欲しいのに。
 目を閉じてはいけない。そう自分に言い聞かせてはいたけれど、まぶたの重さには逆らえなかった。一度浸食を許してしまえば、今度は体じゅうの怠さに耐えきれない。指先から徐々に力を抜いていくと、エリーゼもそれに気付いたのだろう。「花嫁様」と鋭い声が飛んだ。
「花嫁様、……お眠りですか、ソニア様?」
 聞こえていますと答えたくとも、唇は縫いとめられてしまっていた。
 揺り落とされるかのような感覚に身をゆだねる。修道女たちのどよめきを耳にしながら、ソニアは黙って暗闇を受け入れた。



 秋口の日差しに誘われて、そっと瞳をひらく。一番に視界に飛び込んできたのは、灰混じりの薄青だった。
 青年の名を呼びかけて、すんでのところで飲みこんだ。細い白皙を包みこんでいるのが、見慣れた金糸ではなかったからだ。ゆらり、麦色の髪を流し、彼女は指の節でソニアの額を撫ぜていく。
「クラウディア様」
 呼べば、瞳は静かに細められた。
「おはよう、ソニア。具合はどうかしら」
「……平気です。すこし、体が重いだけで」
「それは平気とは呼ばないのよ」
 不養生を叱られるかと身構えたが、クラウディアは首を振るだけだった。どうやら呆れているわけでもないようで、むしろ、来るべき未来の訪れを受け入れようとするかのような穏やかさが感じられた。
 どうにも状況が把握できない。左右するソニアの視線を見て取って、クラウディアは瞳を和ませた。
「その様子では、自分が倒れた理由もわかってはいないのでしょうね」
「……睡眠は、削っていないつもりです」
「ええ、ええ、そうしてちょうだい。あなただけの体ではないのだもの」
 ますます意味が分からない。縋るようにクラウディアを見つめると、彼女も憐れみを覚えたのだろう。一度からかうようにして額を突いた指先が、ソニアの目を誘いながらその腹へと降りていく。へそのあたりをなぞって笑んだ。
「女神様からの授かりものよ」
 いっとき呼吸が止まる。え、と、吐息だけで問い返すほかにはなにもできなかった。クラウディアは再びソニアの頭を撫でて、黒髪を梳いていく。
「ごめんなさいね、ソニア。私の訪問は隠すようにとお願いしていたの。私がここにいると知れば、あなたはどうしても気を使ってしまうでしょう。……あまり無理はさせたくないのよ、お腹の子のためにも」
「……こども、が、ここに?」
「そう。あなたの子供、ラクスの子供」
 ふわりと、一瞬だけ、体が宙に浮くような心地がした。胸に残った浮遊感をやっとのことで飲み下して、ソニアは唇の裏を噛む。どこを向くべきかに迷って目を伏せた。
 覚えがない、わけではなかった。けれどいざその名を口に出されるまでは、ずっと遠くにあるもののように感じていたこともまた否めなかった。毛布の中で手を動かせば、わずかに張り詰めた腹部に行きあたる。
「子供……わたしと、ラクスの」
「嬉しくはない?」
「そんなこと、」
 慌てて首を横に振ったけれど、否定の言葉は続かなかった。
 嬉しいに決まっている。当然だ。命の存在を伝えられた瞬間から、温かな塊がそこにある。身の内側をじりじりと焼くようで、しかし他のなにとも比べようのない幸いをもたらす灯火が。
 それでも胸奥は曇る。蝋燭の炎が曖昧な影を落とすように、形のない怯えがわだかまっている。くしゃりと顔を歪めて「ごめんなさい」とつぶやいた。
「不安、なんだと思います。生まれる前から生まれたあとのことを不安に思うなんて、この子に失礼なのに」
「目のことかしら。それとも耳のこと」
 口ごもっても、いとも簡単に悟られてしまう。かなわないと思いながらうなずいた。
「盲目でも、天の耳を授かっても、そうでなくても、わたしの子供です。まだ実感はないけれど、きっと愛さずにはいられない。でも、誰もが皆、そうではないでしょう」
 修道女たちは。神官は。アーシャラフトの人々は。女神を尊ぶ信徒たちは。いったいどれだけの人が、この子を人として見ていてくれるのだろう。与えた名を、覚えていてくれるのだろう。
「過剰な期待も、失望も、教えたくないんです」
 生まれてくる子供を、どんな棘にもさらしたくない。愛されていること、望まれていることを忘れないでいてほしいのに、間違えずに伝えてやれるのか不安になる。
 クラウディアはしばらく口をつぐんでいた。なにごとか言おうとする気配はあったものの、結局それはかなわないままだった。吸いこまれた空気が声へと変わる前に、扉を叩く音が響いたからだ。
 几帳面に三度。その音を聞いて、クラウディアは相好を崩す。
「怖がっていることをちゃんと話して、溶かしてもらいなさい。言葉にしなければ伝わらないことを、あなたたちはもう知っているはずね」
 ソニアが見送りに出ようとするのを制して、彼女は最後に笑みの名残を残していく。入れ替わりに入ってきたラクスの肩を叩き、彼の代わりに扉を閉じた。ぱたん、と音が落ちて、部屋には二人だけが取り残される。気まずさに毛布を握ってからはっとした。
「い、椅子が。すみません、すぐに用意します」
 強いて上体を起こす。衣ずれの音にぎょっとしたのだろう、ラクスが首を振った。
「いい、……いいから、横になっていてくれ」
「でも」
「倒れたと聞いて飛んできた。心臓がつぶれるかと思ったんだ。無理だけはしないでほしい、頼むから」
 そんな、そこまでのことじゃ、ともごもご呟いたけれど、嬉しさだけは隠しきれなかった。
 彼の手が毛布に触れて、探るように辿っていく。指先で触れれば握り返された。掌がほんのりと汗ばんでいるのに気付いて顔を上げれば、ラクスは軽く息を乱している。
 おそらくは修道女の誰かが大慌てで彼を呼びに行ったのだろう。事情を知らない彼女たちの口では、事態が大げさに伝えられていてもおかしくはない。気絶の理由を問うべきか、問わざるべきか、と考えこんでいるらしい表情を見とめ、ソニアはゆるく息をついた。
「子供がいるそうです」
「子供? 誰の――」言葉を切って、まさか、と瞠目する。「きみの」
「はい。……あなたの、子供です」
 ラクスの口が薄く開かれ、上下して、結ばれる。なにかを堪えるように唇を震わせて、それから淡く微笑んだ。
「そう、か」
「はい」
 彼もまた同じ温もりを感じたのだろう。息の詰まるような、甘美な喜びを。その余波に晒される心地がした。
「生まれるのはまだ先だと思います。これから色々とクラウディア様に教わるつもりで」
「ああ、母上の部屋は用意してある。マティアス殿には僕からお伝えしておこう。他に不便は」
「いいえ。今のところはなにも」
「些細なことでも、体に触るようなことがあれば言ってくれ。産みの苦しみまでは代わってやれないんだ」
 至極神妙な声で言うので、吹き出してしまいそうになる。そうですねと言いながらうなずきを返すと、ラクスはどこか当てが外れたような表情をした。
「なんだ。怖がっているというのはそのことじゃないのか? てっきり痛みを恐れているものだと」
(……あ)
 ときおり忘れかける。彼の耳が聴き逃す会話はないということ、そしてこの非常事態にあって気を使わずにいられるほどの無神経さを、彼が持ちあわせているはずがないのだということを。困惑を顔に浮かべているということは、クラウディアが去り際に残していった言葉をよほど気にしていたのだろう。
 ラクス、と呼びかけて、わずかに躊躇する。冗談めかして尋ねた。
「生まれてくる子供は、天の耳を持っていると思いますか」
 案の定ラクスは目を丸くして、次第に眉間にしわを寄せていく。ソニアが問いかけへの後悔を始めたころ、彼ははっきりとかぶりを振った。
「いいや」
「……そうですか」
 安堵すると同時に、やりきれない思いに襲われる。とはいえ、彼がうなずいてみせたところで、結局は同じ思いに苛まれたに違いなかった。
 いったい、どんな答えを期待していたのだろう。思いをめぐらせても辿りつく場所が見あたらない。ラクスが唇を開いたのは、それから三度ほどの呼吸を置いてからだった。
「盲目と天の耳を携えたからといって、僕になるわけじゃない」
 ひとつ呼吸が置かれる。ソニアが息を詰めたのに気付かないはずもないだろう。ラクスは彼方に首を傾けると、「それに」と言葉を継いだ。
「常人と同じように産まれたからといって、……あいつに、なるわけじゃない」
 飲みこまれた名前には心当たりがある。アーシャであることを奪われた青年の苦笑がまなうらにちらつき、離れていった。
「この子にはこの子の生がある。傷つけられることも、思い悩むことも、ひとつの中身だ。その全てを僕たちが決めつけて、触れる前から取り上げようとすることはただの傲慢なんじゃないか」
 ラクスがソニアの指先を撫で、今度は再び、強く握り直す。そうされれば、小さいままのソニアの掌はあっけなく包みこまれてしまった。心臓そのものに触れられるかのようで、ソニアは視線を揺らす。
 この一年、まるで重石を外されたばねのように、彼は急激に身長を伸ばしていた。それまでは視線だけを上げれば見ることの叶った冬空色が、今ではずっと高い場所にある。かつての少年らしい面影は日に日に薄れていくようだった。
 ――親に、なるのだ。思い至った途端、腹部の灯火が命の形を取り始める。詰められた息の気配も感じ取られてしまっただろうか。
「僕たちが与えてやるのは、命と、ほんのひと握りの光だけでいい。……僕はそう思う」
 冬を遠くに控えた一日。昼下がりの太陽が、静かにまばゆさをこぼしてゆく。そこに抱かれた温もりに目を細めながら、ソニアは体から力を抜いていった。
「この子が生まれたら、名前を、呼んであげたいです……」
 何度も、何度も。せめて別の声にかき消されてしまうことのないよう、忘れずにいられるように。
 うん、と約束を与えてくれたラクスの前に、わだかまりは音もなく溶けていった。









 雪解けの時期、春鳥は若草の芽生えを歌う。白の国に春の到来を告げる花々が端から咲き誇り、アーシャとその継嗣のみに許された庭園にも、いくつものつぼみがまろび始めるころだった。
「いや、まことよく似ておられる」
 壮年の騎士ニクラスを護衛と置いてから、もう二年の年月が過ぎた。その間にも数十は聞かされた呟きに、さしものルッツも微苦笑を浮かべずにはいられなかった。
「また言う。よく飽きないね、そんなに似てる?」
「ええ、お若い頃の父君に生き映しですよ」
「あまり嬉しくないんだけどなあ。僕はむしろ、カミルあたりに似てみたかった」
 本気で言った部分もあったが、騎士には「無理を仰る」と肩を揺らされる。ちえーとむくれてみせればまた笑われた。
 物心の付いたころから、暇さえあれば、彼のいる図書館に赴いていたものだった。父親はいい顔をしなかったものの、母親は手放しに喜んでくれたのを覚えている。勉学を義務付けられるようになった最近では足を向ける機会も減ったが、どれだけの時間を置いて訪れたところで、やはりかつてのように相手をしてくれるのだろうと思う。
(あとで顔を見に行こう)
 そうして歳を取ったと笑ってやろう。次期アーシャたる自分に、臆面もなく拳骨を落としてくれるのは彼ぐらいのものなのだから。
「アーシャ」
 ぼんやりと午後の計画を組み立てていると、二クラスに肩を叩かれる。
(そろそろか)
 促されるままに耳を澄ませば、確かに廊下を歩んでくる足音があった。たどたどしく、けれど神経質に床を踏み、やっとのことで角を曲がる。ルッツの姿を目にして、付き人を連れた少女はにわかに顔をこわばらせた。
 勝ち気そうな性質が見て取れた。着慣れないのであろう法衣の裾をいなしながら、無様な姿だけはさらすまいとしゃんと背を伸ばしている。くっきりとした目鼻立ちはアーシャラフトには珍しい。それも当然だろう、彼女は隣国メリアンツから、広大な平原を越えてやってきた花嫁だ。
「お初に、お目にかかります」
 何度ともなく叩き込まれたらしい一礼を、彼女は今一度丁寧になぞってみせる。
「本日はこの宮殿にお呼び下さいましたこと、身に余る光栄と存じます。次代アーシャにあらせられる御方のお目汚しとならぬよう、お相手を務めさせていただき――」
「ねえ」
 口上を遮ると、少女の唇がひくりと引きつった。正直な子だ、と感じたのが第一印象で、ともなれば数々の大司教よりはよほど相手にしやすい人物だと悟るのも早かった。
「疲れるでしょう。あまりかしこまらなくていいよ」
「……アーシャ」
 二クラスが険しい顔をしても、気に留めるつもりはなかった。ここには次期アーシャの横暴を止められる人間などいないのだ。あとで盛大に叱られる覚悟もできている。挑むように少女を見つめ返すと、ルッツは唇の端をつり上げた。
「きみのことを知りたいと思って呼んだんだ。花嫁でもなんでもないきみと、こうして話がしたくて」
「品定めをなさるおつもりで?」
 お嬢様、と、今度は彼女の付き人がいなす。少女はそちらへ一瞥をくれることもしなかった。その負けん気の強さを目の当たりにして、ルッツは堪えられずに笑いだした。
 メリアンツの娘はみな総じて女傑です――母に仕える騎士から、耳にたこができるほど言い聞かせられたのを思い出す。ですから気弱なお方がいらっしゃるようでしたら、どうか侮ることだけはなさいませんよう。腹に一物を抱えたご令嬢かもしれませんので。そう言った彼女もまた、メリアンツに生まれ育った女騎士なのであった。
(疑う必要もなさそうだ)
 どれだけ喧嘩をして、どんな文句をつけあうことができるのだろう。来る未来を思い浮かべれば胸は弾む。棘を露わにせずにはいられない彼女の態度を見れば、覆いを引き剥がす瞬間もそう遠くないように思われた。
「僕はルッツ」
 笑いかければ、少女はきょとんと唇を結ぶ。茶の髪はしなやかに流れ、緑の瞳は自分の顔を映していた。大地の色、恵みの色、人が選んだ世界の色だ。女神が天と地を繋いだように、アーシャラフトとメリアンツを繋ぐべく、教会は彼女を選び取った。花嫁の存在に、歴史書に記されるだけの意義を与えるために。
 ならば、自分が与えられるものは。迷わずとも答えはあった。
「きみの名前を教えてください」
 新緑が揺れる。まぶたの最中に彼女自身の影がよぎる。
 いつかその色に恋をするのだろう、と思った。

(完結後一周年記念)