歩き方だけは変わらない。前を歩くカミルの背を見ながら、ソニアはぼんやりと考える。
 以前ならば四方八方に跳びはねていた髪は油で丁寧に撫でつけられ、衣装も幾分か上等なものがしつらえられていた。隙あらば叩かれていた軽口も、今ではなりをひそめている。しかし距離が離れれば歩幅を縮め、近づいたかと思えば足を速める、その歩き方だけはアーシャラフトにいたころと変わらなかった。ふり向くこともしないのは、彼が足音のみでソニアとの距離を測っているからだ。
 一度考えてから、足を止めた。さほど間をおかずにカミルも倣う。聞えよがしにため息をついて、嫌々の体をあらわにしながらふり返る。
「どうした」
「嘘を、ついていたの?」
 間髪入れずに問う。はは、と渇いた笑いが響いた。
「嘘なんかついちゃいないさ。なにも言わなかっただけだ」肩をすくめてからソニアの表情をうかがい、「納得はできないだろうけどな」と付け加える。
 真実という建前だけでアーシャラフトを追い詰めた皇帝が、今になって虚言を吐くはずもない。なるほど理解はしたが、彼の言う通り納得はできなかった。
 やれやれと首を振って、ふいにカミルはソニアから目をそらす。
「だから言ったろ。簡単に信じるだなんて言うもんじゃない。俺が怪しいと思ったなら、ラクスに突き出すなりなんなりすればよかったんだ。あんたにはその権限があったんだから」
「ラクスは……知っていたんでしょう」
「そりゃあ。先代アーシャの息子の名前を知らないはずがないさ。まあ、メリアンツのことまでは探り出せなかったみたいだけどな」
 ひとつ息をついて、ふとまじめな顔をする。
「便利な血だよ、アーシャラフトじゃ全然役に立たないってのに、あそこを敵に回した途端に価値のあるものになるんだから、さ」
 アーシャの血の本流はすでに絶えている。幾度も支流から血を流し、繋がれてきた立場だ。アーシャであるたったひとりに意味があり、血の流れる人間そのものに価値は見出されない。直接先代の血を受け継ぐ者ですら、神の与えた耳と盲目には抗えない。一度選定から外れてしまえば血を継ぐためだけの存在になり果てる。
 くり返されてきた歴史。いつかソニアが眺めていたアーシャの血筋に、名前だけが連ねられた人々の声は残らない。記されるのは継がれゆくアーシャの位のみだ。
 口をつぐんだソニアを見やり、カミルは頭をかく。言葉に迷う様子があったが、どれも声にはならなかったらしい。観念したようにまたひとつため息をついた。
「陛下がアーシャラフトに宣戦布告するのも時間の問題だ。帝位に就いての初陣……手間取るだろうけど、ひと月もあれば準備は整う」
 暗に伝えられるのは、もうソニアに帰る場所は無いという事実だ。理解した瞬間に息が漏れた。
 ソニアにとっての日だまり。あたたかで、幸せに満ちあふれた、愛する場所に、せめて終わりが訪れないようにと自らを遠ざけた。選び取った場所だから、きっとどこででも生きていけるのだろうと思った。大切なただひとりを、たとえ傷つけても守れるのなら、心だけは満たされる。偽りの名前にも理由ができるのだと信じていた。
 けれど。
(無駄、だった?)
 女神に愛された国が、永遠の白い国が、音を立てて軋んでゆく。最後の日、訪れぬようにと願ったその日でさえ、ソニアには帰ることも許されずに過ぎてゆくのだ。彼の隣に、座ることもできないまま。
 吐き出しそうになった嗚咽を呑みこんだ。呼吸を止めなければ涙がこぼれそうになる。後悔はしないと決めていたのに、握りこんだ手が震えて止まらない。見えない足場が崩れ落ちていく。歯を噛みしめていなければ立ち続けてもいられない。
「……なあ、ソニア」
 ふいにその手が握られる。目を見開いて顔を上げる先に、金糸がちらついた。
「俺と、亡命でもしてみるか」
 耳に入った言葉が信じられなかった。
 とうとう幻聴を聞いたのかと二度まばたきをする。けれど射抜くようにソニアを見つめる瞳は、まっすぐなまま、真剣なままでそこにあった。その真剣さが、恐ろしくもあるほどに。
「亡命、って」
「誰も追ってこられないところに逃げるんだ。陛下も、教会の奴らも、誰も」
「カミル」
「お前が望むなら……その名前、ミセラも、ソニアも。全部捨てられるなら、俺が連れて行ってやる。もうなにも考えなくていいところで、普通の生活を送らせてやれる。ソニア、俺は」
「っ、カミル!」
「お前のことが、好きなんだよ」
 大きな手のひらに力がこもる。けれど痛みは伝わらない。中途半端に包まれたソニアの手に、じんわりと彼の熱だけが与えられる。
 それはきっと彼の弱さだ。繋ぎとめることも、解き放つこともせず、選ばせる。一歩を引く余地を与えることに、逃げ道を残す。それが誰のためのものなのか自覚することもないままで。
「忘れなくていい。全部心のなかに置いたままでいい。だから」
 続きは言葉にならなかった。彼の手が震えたのも気のせいではないだろう。目を合わせた先の冬空は、縋るように揺れていた。
 きっと彼は許してくれる。ソニアにとっての唯一を、第一を、別の相手のために残したままでも。何度思い出の優しさに浸ろうとも、笑って聞いていてくれるのだろう。
 答えるため、息を吸おうとしてやめる。無言でまぶたを下ろし、ふたたび開いて、手を振り払った。
 彼の手のひらはあっけなくほどける。行き場を失くしたその手はゆっくりと戻され、瞳には寂しさと共にかすかな安堵がよぎった。
「……できないわ。できない」
 ソニアはゆっくりと首を振る。
 それだけの答えに、そうかと彼は笑い、おどけた様子で肩をすくめてみせた。
「残念。悪い話じゃないと思ったんだけどな。これでもけっこう本気だったんだぞ」
「うん、分かってる」
 虚を疲れたようにカミルが目を丸くする。ソニアは力なくほほ笑んだ。
「あなたは嘘をつかない。そうでしょう? ちゃんと本気でいてくれたこと、分かってる。でも、わたしが駄目なの」
 流れた金糸に彼の陽を。見つめた瞳に彼の空を。重ね合わせては、違うことに気付いてしまう。思い出すたびに揺らいでしまう。この手はあまりにも小さく、この心はあまりにも弱いから、たった一人しか愛せない。
「きっと何度も思い出すわ。わたしもあなたも、そのたびに傷つく。でもあなたじゃ埋められない。カミル、誰も、誰かの代わりにはなれないの」
 伸ばされた手を拒んでここに来た。だからもう他の手は取れない。繋ぐならもう一度、彼の手だけだと決めていた。
 カミルはふたたび「そうか」とつぶやき、ぎこちなく口の端をつり上げた。
「本当にずるいな、あいつは」
 くすくすとソニアの笑声が漏れる。
「ええ、ずるい。ラクスはずるいわ。……でも、わたしも、同じぐらいずるくなったから。いいの」
 ソニアが自分からアーシャラフトを離れたことを、ラクスはいつまでも恨み続けるだろう。自らを傷つけてでも誰かを救う方法を、教えてくれたのは彼だった。それをやり遂げることまでは、ソニアには叶わなかったけれど。
 カミルはそれ以上何も言わなかった。くるりとソニアに背を向け、元の通りに先に立つ。
 闇に覆われた石畳を見下ろす、メリアンツの月は儚い。星の光でさえも空を満たさない。人の声はいつまでも途絶えずにそこにあるけれど、女神はどこにもいなかった。
 修道院の前にカミルは立ち止まる。ソニアが扉を開くのを待って言った。
「メリアンツも案外悪いところじゃないさ。陛下に逆らったり逃げようとしたりしない限り、あんたは自由だ。うまくやんな」
 離れていった足音を背に、後ろ手に扉を占める。途端に足から力が抜けて、ずるずると崩れ落ちた。
 修道院の飾り窓から月の光が漏れる。町の声を絶ち切った礼拝堂には静寂が下りていた。割り当てられた小部屋で、子供たちはまだ眠っているだろう。人知れず吐きだした吐息には白が混じり、やがてそらへと消えてゆく。
 ソニアは膝を抱えて顔をうずめる。自らの呼吸の音に耳を澄ませば、夜に融けていく心地がした。けれど頭のなかを渦巻く感情はそのまま眠りに就くことを許さない。ぐわんぐわんと揺れる思考に阻まれて、近づく足音には気付かなかった。
「……お姉さん?」
 顔を上げた先に、小さな人影。
 名前は、確か。ソニアは考えるよりも早く腰を浮かせ、両手を伸ばしていた。抱き込んだ体から明らかな動揺が伝わったが、それもやがて波のように引いていく。どうしたのと問う声も、抱き返す腕もないままで、少女はソニアの腕のなかにいた。もぞもぞと体を動かして、ぽつりと言う。
「お姉さん、冷たい。こんなところにいたら死んじゃうわ」
「…………うん」
「毛布があるの。ぼろきれだけど。ちゃんと温まらなきゃ駄目よ」
「うん」
「返事ばっかりよくても、意味ないのよ。お姉さん」
 とうとう何も言わなくなったソニアに、ヘレナは嘆息を返す。
 彼女の小さな体は、骨と皮だけでできているのではないかと思うばかりに細い。長く冷気にさらされていたのか肌は冷えきって、抱きしめたソニアの手が温まることはなかった。胸の中に脈打つ心臓は、しかし命を継ごうと止まることなくうごめき続ける。
 生きるために、理由が欲しかった。呼吸をすることを許してほしかった。彼の傍ならばそれが認められていた。ここでは、その優しさも灯らない。
 それでも、生きている。
 なにもかも失った彼女たちが、新たな誰かを守ろうとするように。
「ヘレナ」
「なに」
「ごめんなさい」
 伝える言葉も、伝える相手も、間違っていたのかもしれなかった。
 縋りつく自分は、あまりにも弱かった。
 ――けれど。
「うん」
 その一言で、許されたように思えた。