思考が追いつかない。あんぐりと口を開けたソニアを見て、彼はにやにやと笑っている。
「カミル、どうしてあなたが」
「言ったろ、俺はメリアンツで育ったって」答えにならない答えを返して、彼はヘレナとソニアとを見比べる。「それにしても、あんた、ここでも同じことをしているんだな」
 同じこと。意味が取れずに訊き返す。カミルはわざとらしく深いため息をつくと、無遠慮にヘレナを指さした。ぐっと口を引き結んだ少女に言葉をかけるでもなく、「そいつ」とぞんざいに言い放つ。
「見るからに貧しそうな子供じゃないか。おおかた、メリアンツの被征服民ってところだろう? あんたは自分のために与えられた金を、そんな子供を養うためにばらまくわけだ」
 口調が荒い。その言い方も棘を帯びているような気がして、ソニアは困惑する。
 顔も声もアーシャラフトで相対した数日前と同じだというのに、ソニアの前に立つ彼がまとう雰囲気はそのときとは明らかに異なっていた。それは考えるまでもない、硬く鋭いメリアンツの空気だ。かつて体を覆っていたはずの修道衣は町の若者と同じ簡素な服にすげ替えられ、むしろそちらが彼の素であったかのようにしっくりとした調和をかもし出す。そのうちでただひとつ、腰に下げられた小型の剣だけは彼に不似合いなものだった。
 先の言及に答えを返さないソニアに、まあいいやとカミルは頭を掻いた。いやにかしこまった顔をして、姿勢を正す。
「アーシャラフトの花嫁様に、皇帝陛下からのお達しだ。明日の夜、ヴィーネゲルンの宮殿へ向かわれたし、ってな。迎えには俺が行く。いいな、眠りこけていたら叩き起こすぞ」
「ちょ、ちょっと待って」
 腕を振り上げる仕草をした彼を黙らせるように、ソニアはてのひらを向ける。ふたたび空回りを始めようとする思考を落ちつけようと小さく頭を振った。
「全然、説明が足りないわ。どういうこと? 皇帝陛下って、」
「皇帝陛下って言ったらメリアンツの皇帝陛下だよ。……なあ、あんたが訊きたいのはそんなことか? 違うだろ。重要なことを俺なんかが伝えに来る理由、それとどうして俺がメリアンツにいるのかってことじゃないのか」
「答えなかったのはそっちでしょう!」
 思わず声量を上げてしまってから、通行人がちらとこちらを見たのに気付いて身を縮める。カミルが肩をすくめたのを、恨みがましい目で睨んでやった。
「だから……ああもう、頭がおかしくなりそう。あなたはアーシャラフトの神官じゃないの?」
 縋るようにも響いた問いかけに、カミルはとぼけるようにそらを見る。しばらくの間があって、「案外察しが悪いのな」とつぶやいた。言い返そうと勢いよく顔をあげたソニアに首をかしげてみせる。彼女の口を飛び出すはずの反感は、すんでのところで喉に留められた。
「書庫の本。隠しておいた日記を読んだんだろ」
 ソニアは息を詰める。彼もまたその反応に確信を得たようだった。
「あれを書いたのが俺だって言ったらどうだ。アーシャ暗殺未遂の真実も、知っているって言ったら」
 品定めをするような目が向けられた。
 答えを、問いかけを選ぼうとして、結局は一つしか選択肢のないことに思い至る。諦めに唇を噛んだ。
「……あなたは、誰なの?」
「訊かれたのは二度目だな、それ」
 ふっと小さく息が吐き出される。彼が笑ったのだと気付くのに時間を要した。その瞳は、ともすればどこかへと消えてしまいそうな空虚さをたたえている。
 初めてそれを尋ねたとき、カミルは自らをアーシャに反対する者だと言った。それが真実だったのか、それとも奥に隠されたものを晒さないための覆いであったのか、ソニアには判断がつかない。けれど、彼は問いを誤魔化しはすれども嘘だけはつかない人間であると信じていた。――信じたい気持ちがあった。
 返答を急かそうとしたソニアをなだめて、カミルはそっと息をつく。
「全部わかるよ。たぶんな。あんたやラクスが知りたかったこと、全部あの方が教えてくれるだろうさ」
「カミル」
「悪いな、今日は荷物、持ってやれそうにない」
 言い残して、カミルは再度人ごみの中に姿を消していった。呼び止めることも追いかけることも叶わず、紙袋を抱えたままソニアは立ちつくす。
 ねえ、と声をかけたのは傍らの少女だ。ソニアの袖を引き、説明を求めるように彼女を仰いでいる。
「……わたしの、アーシャラフトでの知り合い」
 きっと、の言葉が最後に付きそうなほどに声は弱々しくなった。ソニアの返答に力のないことを悟り、少女は掴んでいた袖を離す。事実、ソニアに弁解する気力は残っていなかった。
(本当に……知り合い、だったの?)
 自らに問いかける。重くなった頭が答えを返すことはなかった。


     *


 あるべきものを失った宮殿に、冬枯れの風は冷たく吹きつける。
 花嫁の出立を見送って一日が過ぎた。表立った抗議の声は上がらないとはいえ、総大司教の判断を疑問視する者は少なくない。以前ならば修道女たちがきゃらきゃらと声を上げていたであろう広場も、今や葬儀のような静けさに包まれている。
 廊下を歩けば小声の会話が嫌でも耳に入るため、ラクスが自室にこもる時間は増えた。ソニアがアーシャラフトからいなくなったあとも仕事の量は変わらない。彼女の受け持っていた仕事も、以前着手していた者がふたたび任に着くようになったと聞いていた。
 花嫁には代えがきく。偶然耳にした言葉を、ラクスは苦々しい思いで反芻する。
 ソニアという花嫁自体、失踪したミセラの代わりに据えられた別人だ。もし現在の花嫁が殺害されれば、新たな女性がその座につくだけのことだろう。名は忘れ去られ、無機質な呼び名だけが受け継がれていくのみだ。
(だけど、彼女は)
 こみ上げた感情のまま羊皮紙の束に爪を立てていた。それに気付いて、ラクスは力を抜く。同室していたレオンが「アーシャ」と呼びかけたのはそのときだった。
「時間だ。ファルツ公爵が到着したと」
「……ああ、わかった」
 手にした書類を横に置いて、ラクスは一拍の後に椅子を立った。
 そのまま廊下を抜ける。聞こえた囁きは黙殺した。慣れた順路の末に応接室の前にたどり着き、一呼吸を置いてから扉を叩く。それに答えたのは老人の声だ。失礼致しますと声をかけ、部屋に入る。
「お久しぶりです、ファルツ公爵。お忙しい中、宮殿にまでご足労いただきありがとうございます」
「いえ、ここはアーシャラフト、女神の住まう国。こちらが赴くのは当然のことでしょう。……それに、本日は謝罪をしに参ったのですから」
「謝罪?」
 公爵の前に腰かけて問い返すと、彼は深く息をついた。
「娘の一件の始末を全て妻に任せ、私は一瞥だにしなかったことを。あれは賢い女でした、賢すぎると言ってもいい。ゆえに馬鹿な真似をした」
「それは、現在、花嫁の地位に着く娘のことでしょうか?」
 言いながら、一度扉の外の気配を探る。レオンハルトによって厳重に人払いの為された廊下には静寂が満ちていた。彼はその上で扉の外に立ち、通りがかる者のないよう目を光らせているはずだ。
 公爵は短い沈黙を挟み、いいえと呟いた。
「私の申し上げたいことは、それだけではないのです。……話に聞く限りでは、婚儀を控えるなかでアーシャ、貴方は刺客に命を奪われたとか。その刺客を放った者は未だに明らかではないと聞き及んでおります」
「……ええ」
「それを放ったのは――我が妻です」
 ラクスは眉を跳ねあげる。続いた物音は、公爵が腰を上げたためのものだ。ややあって彼が唸るような声を漏らす。声の響きから相手が頭を下げていることを察すると、ラクスははっとして「公爵」と声をかけた。
「申し開きをし、許していただこうなどと、都合のいいことは考えておりませぬ。この後、教会と神の御名のもとで如何様にも処断を」
「公爵、どうかお座りください。話が見えないまま罪を問うのは、あまりにも無意味というものではありませんか」
 声を低くし、彼の気を静めることに徹する。公爵は精気を抜かれたようにゆるゆるとソファに座り込み頭を抱えた。ひとまずは話を聞くことができそうかと判断し次第、ラクスは彼を刺激しないようにと抑えた声で問う。
「お話しくださいませんか。あなたの仰る、経緯というものを」
 長い吐息が、公爵の口から吐き出される。
「これはみな、残された手紙から、今になって知ったことですが。妻はメリアンツと通じていたようでした……それも皇帝、アーダルベルト・ビュットナーと。おそらくは、そうすることでファルツ家の安泰を守ろうとしていたのでしょう」
 刺客がファルツ家の使用人であったという報告をソニアから受けたのも、まだ記憶に新しい。彼女が見つけた日記に嘘は無かったのだ。当然その持ち主を探る必要はあるが、それよりも今ひとつ解せないことが残っている。
「刺客は、私ではなく花嫁を狙っていました。そのことに心当たりは?」
 公爵が息を呑み、やはりと言わんばかりにうなだれる。
「メリアンツは当初、アーシャの花嫁に彼らの息のかかった者を潜り込ませ、アーシャラフトを内側から蝕むつもりでいたようでした。それを確実なものとするため、妻は先走ったのでしょう。自ら花嫁の座につけた娘であれば――」
「暗殺するのも容易だ、と」
(そういうことか)
 奥歯をきつく噛みしめる。ソニアを身代わりにした時点ですでにその計画が眼中にあったならば、日が経っても周囲に溶け込めない彼女は格好の餌食であったことだろう。花嫁となる少女が多くの者の心をつかめば護衛がより強固になるのは目に見えている。気をはやらせたコルネリアは、婚儀が行われる前にと刺客を放ったのだ。
 失策の原因はひとつ。ラクスがソニアをかばう可能性を失念していたことだ。
 ゆえにアーシャの負傷という形で事件は収束し、刺客は騎士に捕らえられ自害した。婚儀は延期したとはいえ予定通りに行われ、花嫁は教会の中で頭角を現していった。コルネリアの目論見はことごとく外れていったことになる。
「婚儀の後、妻は死して部屋から発見されました。彼女を殺した者は未だに見つかりません。……ただ、見当はついておるのです。あれはおそらく、メリアンツの粛正にあったのだろう、と」
 口封じということだ。その後メリアンツは計画を変え、花嫁を巻き込んだ和平協約を結ぶ。コルネリアによる暗殺の失敗は花嫁の重みを知らしめる結果となり、それが協約の条件に繋がったのだ。――花嫁となった少女は、象徴としても人物としても、人質に取るに足る存在であると。
(くそ)
 腑に落ちてしまう。内心で毒づきながら、ラクスは次第に寄る眉のしわを抑えられずにいた。
 最善のことをした、と思っていた。ソニアとラクスが生きていることがその証だ。しかしそれは新たなる憂慮を呼び込んだ。皇帝によって弄ばれているようなうすら寒さに悔しさを喚起され、ラクスは意味のない嘆きをふり払う。
「公爵、夫人を殺害した人物に心当たりはありませんか。いくらメリアンツの手の者とはいえ、ファルツ家に忍び込むのは容易ではないでしょう」
 教会ほどではないにしろ、ファルツ家にも厳重な警備が敷かれている。貿易業にその名をとどろかせる商家であるのだから当然だ。それを口に出すと、公爵はほうと息をついた。
「……お伝えしようか、迷ったことがありまして」
「今はどんなものにも縋りたい状況です。お話し下さいませんか」
 手に滲んだ汗を握りしめ、ラクスは語気を強くする。公爵はなおも迷う様子を見せたが、やっとのことで口をひらいた。
「屋敷の使用人がひとり、妻の死後に姿を消したのです。侍従長に暇乞いもなかったことも若さゆえの礼儀知らずであろうかと納得もしましたが、時期が時期でしたので……もしやと」
 名は、と問うた声がかすれた。
 自分の知っている名であるはずがない。訊いたとて栓のないことだ。しかし問わずにはいられなかった。公爵はうろたえたが、ならば一応といった体で答えを返す。
 口に出された名に、ラクスは目を見開いた。
「――カミル、と。アーシャよ、ご存知でしょうか」