夕食を終えたあとは、エリーゼを引き連れてまっすぐに書庫へ向かう。日の昇っているうちは花嫁としての仕事に追われるようになったぶん、勉強を続けていられるのは夜のみに限られてしまったからだ。
 以前に比べれば無理はしなくなっていた。文章の読み書きはほぼ身につけ、エリーゼから指摘を受けることも無くなってきたところだ。会議に出席する際にも苦になることはない。となると目下身につけるべくは知識であり、常識であった。
 窓の外はすでに暗い。慎重にろうそくをかざして、書棚のあいだを練り歩く。前日に見当をつけておいた本を抜き取りながら、借りていた本を戻していった。最後の本を書棚に差し入れたところで、奇妙な手ごたえを感じて首をひねることになる。
(本、が)
 押し込もうとしても途中でつかえ、棚の奥まで入りきらない。
 どうやら、書棚の奥に何かが詰められているらしい。一度周囲の本を抜き出して手を伸ばす。取り出して手元を見れば、書棚の奥に横にして置かれていたそれもまた、一冊の本だった。
「わざわざ、どうして……」
 明かりで表紙を照らそうとして、そこで書庫の扉が叩かれる。はっとして本の山を書棚に戻した。隠されていた本と自分の引き抜いた本を抱え、小走りで書庫を出ると、廊下に立っていたエリーゼが顔を曇らせていた。
「長引かないようにと、あれほど」
「ごめんなさい、エリーゼ。本を返すのに手間取っていたんです」
 訝しむ視線が突きつけられる。嘘じゃありません、と語気を荒くした。
「本が詰まっていて、元の場所に戻すのが難しかったんです。だから一度外に出して仕舞い直したら、時間がかかってしまって」
 そう、嘘はついていない。
 エリーゼは言葉のままに受け取ったのか、仕方ありませんねとだけ言って追及はしなかった。ソニアが早足で部屋への帰路を辿ると、彼女はいつもどおりに後ろを歩く。
 結局、書棚に隠されていた書物のことは黙っていた。放っておいて自然に入りこむような場所ではない。現に先日、ソニアが書庫を訪れたときには、本が書庫の奥に入っているなどということはなかったはずだ。誰かが意図的に他人の目から隠したのだろう。ならば何故だ。
(いたずらかもしれない、けど)
 予感がする。可愛げのあるものではなく、もっと、身の震えるような。
「……様、花嫁様」
 声がかかって、慌てて思考を中断した。無意識に足を止めてしまっていたのかと考えたが、エリーゼがソニアを呼んだのには違う理由があるようだった。ふたりが歩みを進める方向、ソニアの部屋の前にはレオンハルトが立っていて、伸びた影を目に留めるや否や顔を上げたのだ。エリーゼはそこに至って首をかしげる。
「どうなさったんです?」
「アーシャからお前への言伝だ。メリアンツへ向かうため、お前と俺が護衛に選ばれた。総大司教猊下を中心として、アーシャ、他数名と神殿騎士で赴く。出立は明日だ」
「明日!? いくらなんでも急すぎませんか」
「メリアンツから使いが送られてきたのが今日だ。期日は明日、昼。場所を国境に指定して、相互不可侵の協定を結ぶと」
 レオンハルトの端的な説明に、エリーゼが唇を噛む。そして吐き捨てるように言った。
「……時間も、場所まで勝手に指定しておきながら、取り繕った言い方をする。相変わらずですね、あそこは」
 相互不可侵、ではない。体のいい言葉にすげ替えただけで事実上の服従だ。立場が強いのはあくまでメリアンツ側だと示すことも目的のうちだろう。今や大陸一の領土と兵力を手にした大国に対し、アーシャラフト一国では比べるまでもなく分が悪い。
 メリアンツの新たな皇帝が位についてから、二ヶ月が過ぎようとしている。即位式から帰ってきたラクスが怪我を負ったことや婚儀のこと、クェリアでの滞在のこともあり、帝国を意識する暇もなかったのがソニアの実情だった。婚儀の前からその脅威を危惧する声が上がっていたことを今になって思い出す。
 ソニアが暗い顔をしているのに気がついたのか、エリーゼはことさらに声を明るくして言った。
「まあ、侵略を受けるようなことがないだけよしとしましょう。交渉は総大司教猊下がなさいますし、あちらも建前上は相互不可侵を謳っています。そう不利な内容にはならないでしょう」
「……アーシャラフトは、どうなるんでしょうか」
 こぼれるように、不安が漏れた。エリーゼが虚を突かれた表情をして、一瞬だけ息を止める。
「皆、守ることは、できないかもしれない」
 沈黙のうちに口を開いたのはレオンハルトだった。低い位置にあるソニアを見下ろして、言葉を紡ぐ。
「だが、力は尽くす。それが神殿騎士である俺たちの務めだ」
「……っ」奥歯を噛みしめる。すぐに自分を悔いた。「そう、ですよね。わたしたちも、皆さんに守っていただいている。しっかりしなきゃいけませんね」
 彼らの務めが守護であるなら、アーシャやその花嫁の務めは導きであるのだろう。憂慮を見せるべきではない。ソニアにひとつうなずきを返して、レオンハルトはエリーゼへと顔を戻す。なにかを確認しあうように灰の瞳が交わり、それから彼は廊下の暗闇に消えていった。
 唇を引き結んで、数秒。重くなったままの空気をふり払うように首を振った。ソニアはエリーゼに護衛の礼を言い、別れを告げて部屋に入る。
 考えごとをする気になれず、ろうそくが暗闇を照らすのをぼんやりと眺めていたが、ふと思い当たって本の束から一冊を探り当てた。埃を払って明かりにかざす。違和感の正体に気付くのに時間は要らなかった。
「……あれ」
 どこを見ても題が記されていないのだ。怪訝に思ってページをめくっていくと、紙面には誰かの筆跡が残されており、本の半分ほどのところで途絶えている。最後の一文に指を滑らせると少し掠れた。書かれてからそれほど日が経っていないのだろう。予感に突き動かされるように、ソニアは文字を辿る。
 癖の強い字で書かれたそれは、神官の日記であるらしかった。日付と天気、教会内の人事を中心として簡潔にまとめられている。個人的な出来事を完全に排した、感情のない叙述。もし日付が過去のものであったなら、歴史書と錯覚してもおかしくはなかっただろう。
 読み進めていくと、その記述は花嫁がナヴィア宮殿に居を置いた時期にさしかかる。
「“黒い髪、黒い瞳。貿易業を中心に執り行う商家、ファルツの令嬢であること以外に情報はなし。名家の出身であることに引き比べると教養の足りない部分が目立つ”……ああ、やっぱり」
 陰口を目にしてしまった罪悪感と所在なさに唇を噛むも、ページをめくる手は止まらない。やがて記述は花泥棒の事件、メリアンツ皇帝の即位式を経て、ある日付に及ぶ。
「…………え?」
 背筋を冷たいものが滑り落ちる。同時に、嫌な予感が質量を増した。
 即位式翌日、総大司教一行の帰還。教会を混乱に陥れたその日の騒動。アーシャの殺害を狙ったとして捕らえられた刺客。その凶刃が向けられた先を知る者は少なく、刺客を操った者の正体は未だ明らかでない。
「“花嫁を狙った刺客の名はゲオルク・リーバー”」
 ――ない、はずだった。
「……“花嫁を輩出した、ファルツ家の使用人である”」