完全に気を失った男の両手を手際よく縄でくくって、アルバは息をついた。怯える野次馬たちを端から拘束する役目はレオンハルトが担い、彼らはしめし合わせたかのように男たちを領主の館へと引きつれていく。アルバは去り際に一度、ミセラを気にかけるそぶりを見せたが、ひらひらと手を振られるとなにも言わずに背を向けた。
 ミセラはソニアとラクス、エリーゼをそれぞれ見やって、居心地が悪そうに横を向いた。彼女がアルバから受け取っていた銀薔薇の首飾りを、ほら、とソニアに差し出す。
「私には必要ないわ。煮ようが焼こうがあなたの自由」
「でも、もともとはあなたの」
「いらないって言ってるでしょう。ほら、手」
 渋々両手を捧げると、銀薔薇がころりと収められる。あっけないほどに軽いそれを首に下げた。
 ラクスはふたりの会話を探るように聞いていたが、それ以上続きがないと察するや、息をついて言った。
「色々と、訊きたいことはあるけど。まずはソニアだ」
「えっ」
 間の抜けた声が出た。神妙な顔を向けられて眉尻を下げる。肩をすくめたミセラへの対応もそこそこに、ラクスは痛ましそうにソニアへ問いかける。
「怪我は」
「あり、ません」
「初めから嘘を仰らないでください」
 そう言ってエリーゼが顔をしかめた。
 頬には男に数度殴られた痕が残っている。石畳に叩きつけられた際に擦ったのか、腕にもいくつか傷が走っていた。かつてのソニアであればなにも言わずに堪えていたところだろう。茶を濁すように苦笑いを浮かべても、無論それで済ませてはもらえなかった。絹のハンカチで血を拭われ、顔はあとで冷やしますよと釘を刺される。
 それを待ってから、ラクスは首を振った。言いづらそうに目をそらす。
「身の方は」
「……平気です。なにも」
 探るような視線が、エリーゼとミセラから向けられる。しばらくの沈黙のあとに、ソニアはもごもごと答えた。
「本当に。触られたぐらいです。まだ」微かに震えた声を、手のひらに爪を立てて抑えこんだ。「なにもされていません」
 ラクスの瞳が揺れる。冬空色。彼はソニアの空で、静かな太陽だった。その瞳がまたたく。
「これからきみの母親に会う。きみを……売った、罪は、裁かれなければならない。だから」
「わたしも行きます」
「無理は」
「していません。これはわたしの意思です」
 恐れはあった。しかし繋ぐことを許された手があった。躊躇してから彼の手を取ると、軽い驚きの後にゆっくりと握り返される。
 確かめるように踏み出して、ソニアは彼らを誘うように前に立った。通り過ぎてきた道をそっくり戻れば、母が仮の宿を置いていた小屋にはさほど迷いもせずに到着する。
 朽ちた扉をひらくと、土ぼこりの散らばる床に、先ほどと同じ体勢でソニアの母親が座り込んでいた。音に反応して顔を上げた彼女の顔には驚きさえも浮かばない。言葉を失ったソニアの代わりに、エリーゼが彼女のもとに歩み寄り、声を落として尋ねた。
「ソニア様の母君でいらっしゃいますね」
「あら、素敵な騎士様。仰る通り、私はソニアの母親ですわ」
「……貴方を領主のもとへお連れします。罪状はお分かりですね」
 母の目が、エリーゼからソニアに移される。そこに女の色は宿らない。家と同様に疲れきった表情を浮かべて、そうねと呟いた。
「ソニアは、私を捨てていくのね」
「――っ!」
 一瞬、心臓が動きを止めた。吐きだすことのできない感情が胸につまって、喉元を過ぎることができないまま鬱屈する。勝手なことを、と進み出ようとしたミセラをやっとの思いで押しとどめ、ソニアは母をふり仰いだ。
「マーシア、お母さん」
 虚ろな目をした彼女を呼ぶ。くらりと母が首を傾けた。
「わたしは、幸せになりました。あなたに捨てられてから、海を渡り、アーシャラフトにたどり着いて、アーシャの花嫁になりました。それが皆自分の力だなんて言いません」
 ミセラの気まぐれがなければ、ソニアはアーシャラフトの冬に侵され、道端で果てていただろう。教会の情けがなければ、食事を与えられることすらなかっただろう。自らの無力さなど、思い知るまでもなく理解していた。
「あなたに産んでもらったことも、育ててもらったことも、憶えています。わたしにはあなたに恩を返す責任と、あなたのために生きる理由がある」
 断ち切れはしない。
 恐れながら、軽蔑しながら、避けながら、すれ違いながら、愛していた。求めていた。彼女がいつしか失っていた灯火の代わりになれればいいと願った。叶わないから目を閉じた。違う人間なのだと耳を塞いだ。
 でも、と言って、歯を食いしばる。こらえていたつもりの涙がぼろりと落ちた。
「それでも……わたしの居場所は、わたしの幸せだけは、わたしにください。花嫁として生きるわたしを、許してください。わたしはいつまでも、お母さんの子どもです。でも今はアーシャの、ラクスの花嫁でもあるんです」
「ソニア」
「ごめんなさい。……これまで、育ててくれてありがとう、お母さん」
 母が目を瞠る。ゆっくりと口を開くが、そこから声は出てこない。ふらふらと行き場を失った彼女の視線は、やがて自らの足先に留まる。次の瞬間にくしゃりと歪んだその表情だけがソニアの救いになった。
 ラクスがソニアの手を離し、一歩踏み込む。そして彼女の母の前に膝をついた。
「お初にお目にかかります、五十二代アーシャ、ラクスと申します。突然の訪問となり申し訳ありません」
「い……いえ、こちらこそ、このようなところにまでご足労頂くだなんて」
 ラクスが同じ目線にいることが恐ろしいのか、彼女は抱えていた足をよりきつく引きよせる。困り果てて浅くなった呼吸は助けを求めるようでもあった。それに対してラクスは首を横に振る。
「アーシャの花嫁として、あなたのご息女を頂きます。婚儀の後の挨拶になってしまいましたが」
 きい、と窓が風に軋んだ。小屋に取り付けられたそれは使われなくなって久しいのか、黄ばみと埃、蜘蛛の巣が外界の光を遮断し、モザイク状に空を映している。そんな世界しか映していないのであろうラクスの瞳は、しかしソニアの母親を一心に見つめていた。彼女は小さく息を吸い、わずかにためらってから言葉を紡ぐ。
「ソニアは、人違いであったと申しておりました。それは、娘がどなたかの代わりということでしょう。その方がお帰りになれば、娘はまた放りだされるのでしょう?」
 過去を懐かしむように目を細めた彼女が静かに笑う。そこには確かな諦めが顔をのぞかせていた。
「その子は卑しい生まれです。父親は聖職者で、私が子供を宿したと知るや顔も見せなくなりました。私もまた、もはやアーシャラフトに立ち入ることも許されない身です。娘は……女神にも望まれぬ子、背徳の子。いずれは私と同じ道を辿ることになる。違いますか」
 ただ一度の恋であったと、懐古する母の姿をソニアは思い出す。
 父は、ソニアの年の頃から裏路地で身を売り続けた彼女が、初めて目にした“うつくしい人”であったという。身に一切の汚れがなく、清廉な衣をまとい、日に背くこともせずに凛と背筋を伸ばしていた青年。身を焦がしたのは嫉妬で、羨望だった。誑かし、地に堕としてしまってから、はじめてそれが恋であったと気付いたのだと、母は高すぎる空を眺めていた。
 残されたのは腹に宿ったしこりだけだった。そのことがどれだけの後悔を彼女に与えただろう。そのうえ一縷の望みを託して産んだ子は、皮肉にも彼女によく似た娘だったのだ。
 空気が濁りを含んでいく。胸の詰まるような沈黙を切り裂いたのは、ラクスの一言だった。
「……彼女を花嫁にと望んだのは私です」
 だから、と継いで、目を細める。
「誰の代わりでもない。私の愛する人はただひとり、あなたの娘だけです。手放すつもりはありません。……もう、決して」
 両手を口にあて、漏れそうになった嗚咽を押し殺す。つんと鼻の奥が痛んで、答えを与えられたのだと気付く。
 最初から言えばよかったのだ。愛している、と。欲しいものを欲しいと言って、大切な人に、そう伝えればよかった。それだけだった。口ごもって呑みこんだ心が胸の奥で痛みを告げる前に、手のひらの上にそっと吐き出してやればよかったのだ。
「……アー、シャ」
 呆然とするソニアの母の腕を、エリーゼがすくい上げた。
「参りましょう」
 抵抗もないまま小屋を出ていく。ソニアの横を過ぎるほんの一瞬、母の目は確かに娘を見つめていた。