勢いのままに扉を開くと、ぎょっとした表情のイレーネとかち合った。彼女の視線はずぶぬれのソニアを見、うしろのエッダを見て、ソニアのもとへと落ち着く。微かな声で、花嫁様、とこぼすのを聞いた。
 ソニアは黙したままイレーネの隣に並び、ベッドのわきに膝をつく。細く目を開いたビアンカがゆっくりと顔を動かした。
「ビアンカ、薬を持ってきたの」
「はな……よめ、さま。ごめんなさい……」
「謝らなくていいの。起き上がれる?」
 上半身を起こすのに手を貸す。薬を握らせると、彼女はちびちびと瓶の中身を飲みこんだ。ふらり、と傾いだ体が、ふたたびベッドに倒れこむ。その額にかかった赤毛を払い、ソニアは彼女にうなずいて見せた。
「もうちょっとだけ頑張りましょう、ビアンカ。すぐによくなるわ」
 頬をぎこちなく動かして、ビアンカがほほ笑む。そうしてまた瞳を閉じた。薬が効き目を見せるまでにはまだ時間がいることだろう。それまでは介抱が必要だ。自分に活を入れようと鋭く息を吐き出す。様子を眺めていたエッダが、胸元で両手を握りしめてうなずいた。
「あたし、ひとまずイルマさんのところに行ってきます。そろそろ調理場に戻っているころでしょうし、心配していると思いますから。花嫁さま、本当にありがとうございました」
「そんな、わたしはなにも……」
 代金を支払ったのはカミルで、ふたりが戻ってくるまで看病をしていたのはイレーネだ。大きく首を振ったソニアに、エッダは苦笑する。
「修道女ひとりのために飛び出していってくださったこと。心から感謝しています、花嫁さま。褒められたことじゃありませんけど……それでも」
 とても嬉しかった。そう言って笑う。
 ソニアはとうとうなにも返すことができなくなって、喉の奥で戸惑いの声を漏らすばかりだった。軽く頭を下げて部屋を出ていった彼女を、顔を動かすだけで見送る。扉の閉まる音がその部屋に沈黙を落とした。
 そうなればちらとイレーネを窺ってしまうのは、まだのどに刺さった小骨が抜けないからだ。顔を合わせればなにかしらの衝突をしている。いや、それはもはや衝突とすら呼べないものかもしれなかった。何ひとつ言い返せないまま、彼女の言葉をただ受けているだけのありさまでは。
 どきどきしながら黙りこくる。ビアンカの寝顔を一心に見つめていたイレーネが、細く息を吐いた。
「馬鹿なことをなさるんですね、花嫁様」
「ば、ばかって!」
 はっとして言い返す。しかし後先も知らずに飛び出した自覚があるので、それ以上続かない。イレーネはつんと聞こえないふりをし、他方を見ながらぽつりと言った。
「もしもここに、あの方が……アーシャがいらっしゃったら、きっと同じことをおっしゃいます」
「ラクス? どうして」
 そんなことを言うの、と、尋ねる声は尻すぼみになった。口に出した彼の名にイレーネがぴくりと眉を寄せたからだ。それは忌まわしい過去でも思いだしているかのようで、ソニアは目をしばたかせるほかにない。
「……イレーネ」
「なんです」
「あなたは、ラクスが嫌いなの?」
 きょとんとした瞳を向けられた。ひとつのまばたきが続く。
 思いだされるのはカミルの言葉で、アーシャを否定する派閥の存在だった。志すらひとつではないと語られた彼らのなかに、アーシャの花嫁の神性に異を唱える者がいるのは自然のことだろう。それがイレーネと自分との因縁に関わってくるのかもしれないと考えていたのだが、問われたイレーネはすぐに視線をそらしてしまった。
「いえ。そのようなことは、決して」
「でも、ラクスのことを話すとき、いつも嫌そうな顔をしているから」
「勘違いでは」
「ううん、いつも。今日に限ったことじゃないわ」
 イレーネは口を開いて、閉じた。そうして唇の端を噛む。
「……本当です。私が、あの方を、嫌うはずがない。嫌えるはずがないんです」
 息を吸う音まで聞こえるようだった。冬の空気を深く溜めこんだイレーネがゆるやかにかぶりを振る。その表情は苦しげだ。静かな間があって、ソニアが所在なさにせわしなく両指を組み合わせていると、彼女は「過去に」とうなるような声を漏らした。「過去に、アーシャに、恋心を抱いた娘がいました。娘はただの修道女で、まだナヴィアに来たばかりでした」
 続きを促そうとうなずきを返す。イレーネは膝に置いた自らの指先を見つめ、再び口をひらいた。
「彼女には、夢がありました。それが叶うことは決してないということも知っていました。失意のさなかに辿りついたナヴィアで、娘は道案内を受けたんです。あの方に。アーシャに」
「道、案内?」
「ナヴィアの廊下は入り組んでいますから。なんの変哲もない、ただの案内です。……けれど、娘は、恋をしました。夢を抱くどころか、ゆく先すら定まって、逸れることの許されないあの方に。愚かでしょう? 娘はあの方に、自分を映し見ていたんです」
 斬りつける。傷つける。過去の影を追い詰めてゆくように言葉を紡ぐ。捨て去ることのできない幻影を背に張り付けたまま歩く苦痛がどれだけのものであるかを、他人がうかがい知ることは不可能だ。ソニアはかわいた喉で問いかける。
「その、女の子って」
「……馬鹿な娘は死にました。もう蘇りません」
 イレーネは腹のなかの毒をすべて流しだそうとするかのように、長く、長く、息を吐いた。ソニアが見つめる前で、わずかに頭を垂れる。
 そうして、瞳を閉じた。
「娘はただ、憧れることしかできなかった。……ならば、花嫁様の存在は、あの方の救いになりましたか」
 弱々しい声が、縋るあてもなく響いていった。答える言葉のないことを、あるいは彼女は知っていたのかもしれない。うすく笑ってソニアを仰ぎ見る。途端に胸が詰まって、ソニアはこみ上がるものを必死に抑えこんだ。
「救いって、なに」震える指に、唇に、止まれと願う。止まらないならせめて、声だけは強くあれと。「わたしにはなにもできない、できなかったの。だってわたしにはなにもない。そのくせ、あなたみたいに耐えることもできないで」
「何故、私のようになる必要があるんです」
 息を飲む。言葉を止めたソニアの前で、イレーネの片手がビアンカの毛布に触れて、そっと撫でていく。
「花嫁様、あなたが薬を買おうとなさったのは何故ですか。大した権威もない修道女を助けようと思われたのは?」
 口のなかの唾を飲みこんだ。答えなど考えるまでもないことだ。部屋を飛び出したのも、考えた上のことではなかった。理由をつけようとするのはいつも、激情が収まったあとの心だ。
(ああ、そう、なんだ)
「苦しいときに助けて欲しいのは、力のある人も、ない人も同じだわ」
 ただ、ビアンカを助けたかった。心から笑ってくれたあの少女を。相手が誰であっても同じことだ。イレーネを、エッダを、そしてラクスを助けるために、この足は駆けだすことができる。あがき続けることができる。それが自らの身を削ることであっても、きっと。
 イレーネが、どこか遠くを見るように目を細める。首を振って言った。
「やはり、あなたのことは理解できません。わけがわからない。考えなし、とびきりの馬鹿です」
「そ、そこまで言わなくても……」
「もしも私があなたであったとして、決してあなたのようにはなれなかった。それだけはわかります」
 彼女の手が緩く布団の端を握った。ですから、と繋ぐ。
「花嫁様。あの方をひとりになさらないでください。お傍であの方の名前を呼べるのは、あなただけだから」
 ひとりにしない、と、誓ったことがあった。いなくならないでと願ったことがあった。そのために勉強をしたし、痛みを覚えてなお花嫁として振る舞い続けてきた。けれど目的はいつの間にか逆転して、花嫁であること自体が目的に変わっていた。それこそが人形の振る舞いなのだとも気付かずに。
 ミセラと花嫁。ふたつの名にとらわれていたのは自分のほうだ。
 大きくうなずいたソニアの首で、銀薔薇が揺れ、胸を叩く。顔を上げたそのむこう、唇を引き結んだ彼女のまなじりはかすかに水気を帯びた。