それは孤独という名の
 宮殿の前には人だかりができていた。
 空は高く、太陽が貫くように光を放つ。風が冷たいにもかかわらず人々が一様に顔を上げているのは、これが宮殿外でアーシャを目にすることのできる滅多にない機会だからだろう。ナヴィアの門からラクスが姿を現すといっせいに歓声が上がった。負けないようにと、ソニアは顔を上げて声を張った。
「みなさん、お気をつけて!」
 ナヴィア宮殿の前に集う騎士たち、彼らの中心には彼らを率いるアーシャと教会を束ねる総大司教。護衛に十数人の神殿騎士を引き連れ、メリアンツへの出立のときを迎えようとしていた。その周囲を幾重にも信徒たちが囲み、ソニアは最前列で馬の上のラクスを見あげている。目の不自由な彼の乗る馬を操るのはレオンハルトで、その隣をエリーゼが固めていた。やや離れたところではマティアスが町の人々に言葉を授けている。
 メリアンツ皇帝の即位式当日。来賓として招かれたのは総大司教たるマティアスと次期アーシャたるラクスのふたりであった。彼らの道程に危険が及ばないよう、かつメリアンツ方に失礼のないようにと神殿騎士の精鋭たちが少数付き従っている。今日から明日にかけてメリアンツで一泊し、翌日アーシャラフトに戻ってくる日程となっていた。
 エリーゼらの帰還から一週間足らずのあいだに、騎士たちのなかでは、強者を選び出すための模擬試合が行われていたという。側近という優遇なしで試合に加わったエリーゼやレオンハルトであったが、それでも上位に食い込むのだから実力は本物だ。最上位の者たちはマティアスの護衛に回されるため、うまく順位を調整した節もある。
 馬の上からソニアの声を聞きつけたラクスが、片手で帽子をおさえて体をひねる。公式の場のために用意されたアーシャの帽子は司教帽に近いつくりのために飛ばされやすい。あるじの意向に気がつくと、レオンハルトはソニアのもとへと馬を寄せた。
「本当に、護衛はいらないんだな」
「大丈夫です。外には出ませんし……それに、いつもひとりで歩きまわっていたのはご存じでしょう?」
「ひとり? それはエリーゼが、」
「アーシャ!」
 制するように上がった声は、件のエリーゼのものだ。心なしか焦った様子で手綱を操り、同様にソニアのもとへ歩み寄る。
「エリーゼが? なんですか?」
「なんでもありませんよ。さあアーシャ、参りましょうすぐに」
 動揺しているのがありありと見て取れた。ラクスがあきれ顔をする。
「まだ言ってなかったのか……」
「言えるわけないでしょう」
 こそこそと会話を交わしているようだが、周囲のざわめきのせいでソニアの耳には入ってこない。問いただすべく声をかけようとしたところでレオンハルトと目があった。無表情のまま見下ろされて、ソニアは意図せずも生唾を飲む。
「エリーザベトが、あなたの護衛をしている。普段は」
「は、い?」
「に……っ、兄さん!」
 数人の騎士たちがふり返った。珍しい呼び名に気が引かれたのだろう。ソニアが同様にエリーゼに顔を向けると、彼女は頬を紅潮させた。ぎょっとしたのはレオンハルトでもソニアでもなければ見えていないラクスでもなく、神殿騎士の仲間たちだ。それぞれに気を利かせて、そっと目をそらしていく。
 ソニアはエリーゼとレオンハルトを見比べ、最後に彼のほうへと視線を落ち着かせた。
「勉強の時間以外も、ですか?」
「俺がアーシャの傍にいられないとき以外は、常に」
「兄さん、ちょっと黙ってください!」
 では、ソニアが書庫にこもっているときも、部屋で本にひたっているときも、外で見張りを受け持っていたというのだ。ソニアが実際にひとりきりで書庫にいたのは、彼女たちがメリアンツに向かっていたときだけだったのだろう。気ままに歩きまわっているつもりが、きっちりと護衛をつけていたということになる。
 エリーゼにもう一度顔を向け、今にも兄に食ってかかりそうな彼女の名を呼んだ。エリーゼは小声でうめいたあとに、隠すつもりはなかったのですが、とよそを見た。
「負担になりそうだったので。誰かが付かねばならない仕事でしたが、騎士のことなどを気にされていては、あなたはご自由にもなされないでしょうし」
 強く否定はできない。わたしは平気ですから、ラクスのほうへどうぞ、とエリーゼを遠ざける自分が思い浮かんで苦い笑みが漏れた。
「ごめんなさい、エリーゼ」
「その言葉も聞きたくなかったので」
「うっ」
 読まれている。はあと息をついたエリーゼに、ソニアは迷った末に付け加えた。
「その、ありがとう。……これからも、よろしくお願いします」
 エリーゼが口のなかで、ソニア様、とつぶやく。声を伴わないそれは群衆の騒ぎのなかに消えていった。同時に先頭に立つ騎士が出発を宣言したので、否が応にも前を向かざるを得なくなる。馬蹄の音を地に響かせて歩いてゆくひとびとをソニアは大きく手を振って送りだした。
 アーシャラフトの重鎮と騎士たちが門のかなたへ消えてゆくと、群れをなしていた町人たちはいそいそと各自の生活へと戻っていった。見送りに出ていた神官たちも、ひとりまたひとりと宮殿に入っていく。幾人かはそのまま大聖堂へと向かい、朝の祈りをささげるようだった。
 朝食はとうに終えている。だが昼食までにはまだ時間が残っていた。いつものように勉強をしようかと考えていたソニアに、どこからか歌声が届いてくる。耳をすませば、それは女声だけの賛美歌だった。教会に拾われた日に聞いたものと同じだと気付いて、音のほうへと体を向ける。
(今日だけ、お休みにしようかな)
 心のなかで決める前に、すでに足は旋律に誘われている。歌声に耳を傾けながら石畳を踏んだ足音は、知らず知らずのうちにリズムを刻んでいた。



 彼女たちが賛美歌を響かせる場所を知っている。ナヴィア宮殿の抱える二庭のうちのひとつ、神官たちに開け放たれた憩いの庭だ。中心には石造りの噴水、それを円形に囲む植樹と花々。切り出した木を組み合わせたのみの武骨なベンチが置かれ、昼下がりには修道女たちが集っては華やかに笑い声をあげているのが常だ。
 だがときおり、彼女たちはこの庭において賛美歌の合唱を披露する。顔ぶれは一定ではなく、その場その場でそろった女性たちが突発的に歌っているようだった。そこに金銭の絡みは存在しない。定期的に行われているわけでもなく、娯楽のない宮殿においては一種の催し物と化している。
 ソニアが様子をうかがい、堪え切れずに庭に姿を現すと、体を揺らして歌っていたうちの一人が小さく悲鳴を上げた。
「は、花嫁さまっ!?」
 花嫁さまよ。本物だわ。どうしてこんなところに。次々に衝撃は伝播していく。ぴたりとやんだ歌声はそのまま彼女たちの驚きを示していた。小声で交わされてはいたが、会話は増幅されてはっきりと耳に入ってくる。ここに住み始めてひと月が近く、そろそろ宮殿にも慣れてきたころだろうと思っていただけに、ソニアは困惑に目をしばたかせる。慌てて首を振った。
「あ、つ、続けてください!」
「でも、花嫁さま……」
「邪魔をしたいわけじゃないんです。歌、聴かせてもらえませんか?」
 噴水の脇、一段高く積み上げられた石畳の上に、十人前後の女性たちが立っている。自然とソニアはやや顔を上げる形になった。彼女たちは互いに顔を見合わせたが、中心に立っていたひとりが騒ぎを静めるように両手を打ちならす。
「それじゃあ、いつもどおりに歌わせていただきます。みんなもいいわね?」
「エッダが言うなら……」
 渋々、といったようにうなずき合う仲間たちを見回し、エッダと呼ばれた女性は手で腿を叩く。たん、たん、たん、と拍を取り、指を振って、そして。
 一斉に響きだした澄みわたる女声に、ソニアはぽかんと口をひらいた。ふらふらと最寄りのベンチに腰をおろすと姿勢がぴんと伸びるのを感じる。歌に用いられているのは古代の言葉で、なんとなくでさえも意味をつかむことはできない。ノーディス、聖ノーディス。聴きとれるのはその女神の名だけだ。
 ソニアを見て悲鳴を上げた少女も、始めこそおっかなびっくり歌っていたが、ぎゅっと目を閉じることに落ち着いたらしい。両手を組み合わせ、安らかな表情で歌声を響かせる。年のころはソニアより下のように見えた。彼女たちのなかでは最年少だろう。逆に四十を超えるかという女性も混じっているのだから、この宮殿に住まう者に年齢の境はないのだとしみじみ気付かされる。
 風に乗って、空をわたり、歌声はどこまで届いてゆくだろう。宮殿の入口ですらはっきりと聞こえていたのだから、アーシャラフトの街全体に流れていくのかもしれない。メリアンツを発った彼らは、この歌を背に聴いているだろうか。
 歌声がやむ。眺めていた者たちが手を叩き、ソニアもまた拍手を送った。一息ついたエッダは深く頭を下げたあと、他の女性たちをふり返る。
「今日はおしまい、一緒に歌えて楽しかったわ」
 次々に上がる賛同の声に、エッダはとびきりの笑顔を返す。強気そうな表情が美しい二十歳ほどの女性だ。彼女が快活な言葉を全員にかけ終えたところで女性たちは散り散りになり、興奮した様子で中庭を出ていく。エッダはソニアに顔を向け、一礼した。
「お聞き苦しくありませんでしたか」
「ぜんぜん! とても素敵でした。今の歌はなんて名前なんですか?」
「女神はふたたび来たらん、です。女神の誕生、人の身からの転生を歌っています」
 一度死したのちに蘇り、神性を得たという女神ノーディスの神話。概要を聞いたことはあっても、内容までは調べたことがない。おずおずと説明を求めると、エッダは快くうなずいた。
「はじめにあったのは、天と地と混沌でした。その混沌から生まれたひとびとは土地をつくり、町をつくり、そしていのちを育んでゆきました。しかし、つくり上げられた世界は、突如融合を始めた天と地によって押しつぶされそうになってしまいます。そのとき、ノーディスという名の少女が天と地のはざまにおもむきました。彼女は天と地の恵みより作られたワインをその身に満たし、自らを贄とすることで、天と地を切りはなしたのです」
 よどみなく紡がれる神話を、ソニアは真剣な表情で聞いている。その姿勢がエッダを満足させたのか、語りには熱が入った。
「完全にふたつに分かたれた天と地は、今度は世界を引きちぎらんとしました。ノーディスはひとびとの嘆きのなかでふたたび目を覚まし、うごめく混沌をもって天と地を縫いとめます。そのとき、この地に初めて雪が降りました。それから彼女は女神として崇められ、この地でとこしえの眠りについたといいます。……これが女神の転生神話ですね」
 ぱちぱちと拍手を送る。話せと言われてこれだけのものを語り聞かせられる神官ばかりではないだろう。物語を暗記しているのではないかというほど流麗に語られた神話に感嘆していると、当のエッダは照れくさそうにほほ笑む。
「昔は旅芸人をしていたんです。歌と、物語と。一座の主役だったんですよ。でも乗っていた船が嵐に呑まれたとき、奇跡みたいに全員無事に生き延びたことがあって。女神さまのお導きだと思って、こうして修道女になったんです」
「すごい、行動力……」
「歌だけはあきらめられなくて、今もこうして歌っているんですけどね」
 昔を懐かしむ表情はどこか、かつて医者を目指した少女に似ていた。
 諦めた者と、手放した者がいる。神を敬う道に入る理由は千差万別で、その信心もそれぞれに異なる。ラクスが口にした様々な信徒とはこのことなのだろう。神官となることの利を考えれば、神の存在を信じていない者すらいてもおかしくはない。
 同じ神を敬っていても、同じ場所に住んでいても、全員の心は決して一致しないのだ。アーシャラフトは存外、安全とは言いきれない場所なのかもしれない。内心によぎった影を隠してソニアはありがとうと笑んでみせた。