ひざを抱えてうずくまる。いくら待ってもイレーネが戻ってくる気配はなく、また他の人間が扉を叩くこともなかった。書庫は宮殿の端にあるため、あえてここに来ようと思わない限りは修道僧たちがここを通りかかるということはないのだ。
 取り付けられているどの窓にも格子が建てつけられている。子どもひとりであっても外に出ることはできないだろう。かつてここは子どもたちの教育の場で、文字の羅列に耐えきれなくなった彼らの脱走が相次いだために窓を閉め切ってしまったという。そんな嘘か本当かわからない逸話を語ったエリーゼも今日じゅうには帰ってこない。ソニアがいないことに違和を感じる者がどこにいるだろうか。
(いなかったとしても、夜には出られるだろうし)
 夕食の時間になれば否が応にもソニアの不在が騒がれるだろう。その嫌疑はラクスに向かうかもしれない。共に広間を出ていくところは目撃されていたのだから。
(それはいやだな……)
 助けを呼ぶことはしていなかった。できなかった。
 自分にその気がなかったとしても、それが他者にとっての命令に変わることを恐れていた。アーシャの花嫁となる自分の言葉が、犯人を見つけだすための騒動を巻き起こしてしまうことも。無意識に踏みにじってきたものに、ソニアは声をかけられてはじめて目を向けたのだ。
 思考が混濁に沈むたび、いけないとふり払おうとする。それでも完全には断ち切れなくて瞳を閉じる。果てのない砂漠を歩み続けているように思えて、ソニアは膝頭を胸元に引きよせた。
 物音が耳に届いたのは、そのときだった。
「鍵かかってんじゃねーか、誰がこんなこと」
 ひとのこえ。扉越しのそれに跳びはねてじりじりと後ずさる。物音が耳に届いたのか、廊下がわの彼は、ん、と訝しげな声を上げた。
「そっちに誰かいるのか」
「あ、はい」
「もしかして閉じ込められたか? ひでえことするな、……すぐ鍵取ってくるから。待ってな」
「あの!」立ち去りかけた彼を慌てて呼び止め、「だ、誰にも言わないでください」と小声で頼んだ。どもりながら発した願いには相手も戸惑ったらしい。わずかな間のあとに、なんで、と率直な問いが返された。ソニアもまた返答に迷って、結局考えがまとまらないままで口に出す。
「だいじょうぶですから。ごめんなさい、鍵、お願いします」
「大丈夫って……まあ、話はあとか。もうちょっと我慢してくれよ」
 その一言を境に遠ざかる気配を見送って、ソニアはほっと息をついた。会話をしたことのない相手だ。姿を見せていないために正体を悟られることはなかったけれど、いざ扉をひらけば当然ソニアの身分も知れてしまうだろう。すんなりと助けを求めた自分には驚いたが、あとに続くであろう問答のことを思うとそう好ましい状況ではないのだ。
 口のなかに広がった血の味に、苦々しい思いで眉を寄せた。いつの間にか強くかみしめていたそこが浅く切れている。乾燥した空気に耐えきれなかったこともあるのだろう。唇を口内に巻き込んでやわく舐めながら、ソニアはうつむいた。
 イレーネを責めるつもりはない。はっきりと貧富の差がついたこの時代、貧しい人間が手に入れられるものなどたったの一握りだけだ。その一握りでさえつかみ取ることのできない人間もいることも、痛いほどに理解していた。たまたま拾われて、たまたま人違いを起こされて、たまたま花嫁の座に座らされたソニアには彼女に返す言葉がない。降って湧いた幸運を享受しただけだと自覚していた。
(認められたかったんだ)
 自分がここにいられるだけの理由を作ろうと思っていた。ミセラを知らない人々に、受け入れてもらえるだけの人間でありたいと願っていた。その意志がある限り、少女の言葉一つで揺らいでしまうような自分ではいけないはずだったのに。
 ソニアがふたたび力なく顔を上げたのは、固く閉ざされた扉が急にひらいたときだ。よろけながら腰を上げる。向かい合って初めて、書庫の外に立つ青年が自分より頭ひとつ以上背が高いことに気付いた。神妙な面持ちで書庫を覗き込んだ彼と目があって、ソニアは居ずまいを正した。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
 ふかぶかと腰を折る。青年は困り顔でぽりぽりと頬をかくのみで、その挙動にソニアはあれと思う。
「一応、誰にも言ってない、けど。いじめられてるのか、あんた」
「い……いいえ、なんでもないんです。本当に」
「なんでもないってことないだろ。相手はひとりか、大勢か」
 ソニアの姿を目にしても、青年の口調は変わらない。それどころかこの一件に親身になって問いかけてくる。もしや花嫁の顔を知らないのだろうかと考えたが、日に二度は食事を共にしているはずなのだから、そんな神官が存在するはずもない。
 日の光を透かすような金の髪と、わずかに濁りの混じった空色の瞳。ろくに整えていないのだろう髪はぴんぴんとはねていて、目には剣呑な光が宿っている。長く伸びた健康的な手足は、神官になるより、馬に乗って野山を駆け回るほうがよほど似合っているように思えた。
 そうしてぼんやりと彼の顔を見あげていると、聞いてんのかと眉間にしわを寄せられる。ソニアは苦笑した。
「喧嘩を、したんです。きっと」
「鍵がかけられてたんだぞ? 喧嘩で済む話じゃない」
「それでも、言ってはいけないことを言って、知らずにあの子を傷つけたのはわたしのほうですから。なにを言われても言い返せなくて……勘違いをさせたままになってしまったから、こんなことになったんです」
 青年が黙りこむ。意味をはかりかねているのだろうが、ソニアにはもとから説明をする気がなかった。
 真剣に自分のことを案じてくれていることは、食い下がろうとする姿勢からいくらでも伝わってくる。だがその心配も、身分が知れれば、彼の砕けた口調と共に脆く崩れ去るものだとも理解していた。ソニアの立つ場所はもう身分差と利害なしでは語れないところにあるのだ。アーシャという名を負って生きる少年が、生まれてからずっと耐え抜いてきたところに。
 ひとつのところで生きるということは、そこにあるものをすべて受け入れるということだ。春風のように心地のよいものだけではなく、曇天の重みも、刃の痛みも、噛み砕いて飲みこまねばいけない。そうして作り上げた場所でならきっと、うまく呼吸をすることができる。
 衣の埃を払い落として、唇の端を上げてみせた。余裕のある笑みを浮かべるには、ソニアはいまだ未熟だ。
「鍵、本当にありがとうございました。いつかお礼をさせてください、あなたのお名前は……」
「カミルだ」
 ふてくされた声で返される。カミルさん、カミルさん、と二度繰り返して、ソニアはうなずいた。
「わたしはミセラ。ミセラ・ファルツです」
「知ってるよ、アーシャの花嫁だ。あんたの顔を知らない人間なんかここにはいない」
 え、と驚きを返すと、カミルが思いっきり不満げな顔をした。
「知らないとでも思った? それほど馬鹿にされてたわけだ」
「ち、違います! ……ただ、その、態度というか、ぜんぜん」
「ああ、敬語じゃないとお嫌、ですか」
 最後を強調された。ソニアはぶんぶんと首を振る。そういう意味で言ったわけじゃない、でもあなたは普通に振る舞っていたから。しどろもどろでそう説明すると、カミルはふんと鼻を鳴らす。
「アーシャも花嫁もただの神官だろ。あいつのことは気に食わないし」
 あいつ、とは、ラクスのことか。言葉を交わした経験があるのか、それとも遠目から見た印象なのかは知らないが、私的な理由を態度に出すのはあまり褒められたことではないだろう。ぽかんとするソニアを見つめ、ややあって、カミルはにっと笑った。
「あんたはそこまで嫌いじゃないよ。卑屈なとこ治したらもっといいんじゃない」
「ひくっ……!」
「全部自分のせいにすることはないんじゃねえの、ってこと。ああ、あと敬語じゃなくてかまわないから。さん付けもいらない」
 カミル、と自分を指さして言うので、ソニアはぼそぼそと復唱する。きちんとした声にはならなかったが、どうやら彼は満足したらしい。より笑みを深くすると、さらになにごとか付け加えようとする。楽しがっているようだということはよくわかった。
 どうしよう、と思案顔をしたのも束の間。彼の背の向こうに、ここにはいるはずのない人影を見る。彼は不機嫌という感情そのものを張り付けたような顔で歩み寄ると、息を吸い、そして。
「カミル!」
 大声で呼んだ名は自分のものではない。そのことがほんの少しだけ、胸にしこりを残した。なにを期待したんだろう、とそこをおさえるソニアの前で、カミルがのっそりとふり返る。背後に立つラクスと騎士の姿を視界に入れたところで瞬時に空気が張りつめた。
 先ほどの彼の言い分を思い出す。気に食わない、と言ったところまで、ラクスの耳には届いていただろうか。懸念を抱きながらじっと見つめていると、ラクスがちらと視線を揺らした。
「そこにいるな。帰るぞ」
「は……はい」
 この言葉こそは自分にかけられたらしいと気付いて、ソニアは小走りで彼の元へと寄る。もう用はないといわんばかりにラクスは背を向け、来た時と同様に歩いてその場を去ろうとする。そうして数歩を進んだところにカミルが声をかけた。
「アーシャ。そいつ、閉じ込められてたんですよ」
 ラクスの肩がぴくりと跳ねた。ふり向くとまではいかないまでも、わずかに顔を動かす。カミルの声は鋭く、蔑むような響きを持っていた。ソニアに向けた、おそらくは彼の優しさの混じった口調も片鱗を見せるのみだ。
 やめて、と口のなかでつぶやいた。やめて。その先を言わないで。彼の言わんとしていることは聞かずとも思い浮かべられる。――そうしたら、堪えた意味が。
 けれどカミルは、憎しみをこめて言い放つ。
「誰も一緒にいてやらなかったからだ。昼みたいにあんたがそばにいれば、そいつだってこんな目には」
「やめて!」
 自分でも思ってもみなかった声量が出た。水を打ったように静寂がおり、そのしじまを痛いほどに感じながら、ソニアはラクスに顔を向けた。
「なにもありませんから。戻りましょう」
「……お、おい、おまえ」
 なおも追いすがるカミルを、ソニアは固い表情でふり仰ぐ。
「言わないで」
 それきり誰も口をひらこうとはしなかった。沈黙とソニアの態度になにを思ったかは知れないが、先導して廊下を歩むラクスを追う。
(……ああ)
 こうやって、失っていく。自分の境遇を案じてくれた相手でさえも黙りこませて進んでゆくのだ。居場所の土台を固めようと踏み下ろす足は、そのために他人をも踏みつけてしまう。かけられる声も聞こえないふりをして、さえぎって、何度も地面を叩き続け。
(いやだな)
 そうしてできあがった場所は、それでもしあわせに満ちるのだろうか。