翌日。忙しく駆けまわる青年たちの姿を朝からよく見かけている。彼らの腰からつり下がった真白の鞘が、意志を持ったかのように躍動する様子に目を奪われた。
 神殿騎士に修道服着用の義務はない。代わりに、デザインの統一された剣を白の鞘に包んで所持することを決められているようだった。鞘の縁には青い円の装飾が為され、永久にもたらされる女神の加護とその転生とを示している。
 ――女神は転生して、その神性を得た。それが女神信仰の根幹である。
 伝説として残る聖アーシャの花嫁の死は、女神の転生を人の身で再現する行為だったのだ。ほぼ女神と同一化された彼女の名が後世に語り継がれることはなく、代々の花嫁もまた書物に名を残されることはない。
 円。巡っては終わり、終わっては始まる永遠の輪こそが、アーシャラフトの女神信仰だ。
 その円を腰に宿した騎士たちは互いに指令を伝達しあい、どうやら何ごとかに備えているようだった。その指令のもとがアーシャであることは明白だったが、内容まではソニアの知るところではない。エリーゼが現れるのを待ってもみたけれど、今日に限って彼女は書庫をおとずれなかった。
(ラクスのところかもしれない、けど。さすがに押しかけるのは迷惑だろうし)
 ひとりぽつんと書庫の椅子に座っていたが、とうとうしびれを切らして抜け出したのがついさっき。行くあてもなく宮殿をさまよっていた。
(なにか手伝えたらいいのに……)
「あ、花嫁さま……きゃっ」
 うわの空で歩いていたら小さな背格好と衝突した。ひりひりと刺激が伝うあごをおさえて顔を下に向ければ、顔よりも先に赤いおさげが目に入る。
「ビアンカ? わ、ごめんなさい。だいじょうぶ?」
「平気です、花嫁さま……こちらこそごめんなさい、おひとりでいるので気になって。どうされたんですか?」
「ちょっとね、考えごとをしていたの」
「考えごと」
 首をひねる彼女に、庭園の一件を伏せたまま神殿騎士たちのことを尋ねた。ビアンカはしばし考えたあとにそういえばと手を打つ。
「夕食にはスープを出すなって言われていました。危ないからって」
「誰から?」
「神殿騎士の方からです」
 ならば実質、アーシャであるラクスからの連絡だ。
 神殿騎士と名付けられている神殿の守護者たちの起源は、アーシャを中心として剣を取ったノーディスの信徒たちにある。ともなればその血を受け継ぐ者が騎士たちを取りまとめるのは至極当然のことだった。
 とはいえそれも有事に備えてのことだ。日ごろ騎士たちを総括しているのは彼らの代表に他ならず、訓練や警備の分担も彼らが自身で取り決めている。そこに次期アーシャが指令を出したともなれば、今のように宮殿じゅうが騒然とするのもおかしくはない。
「なにがあるんでしょうか。花嫁さまはご存知ですか?」
「……さあ」
 首を振った。隠しごとをするのは気が引けたけれど、むやみに言いふらすことでラクスの計画を潰してしまうことを恐れていた。ビアンカは人の嘘に敏感ではないようで、そうですかと納得してやすやすと引き下がってくれる。
 そしてすぐにはっとして、それまで手に提げていた籠をかかげてみせた。
「いけない、わたし、買い出しを頼まれていたんです。香辛料が足りなくなったみたいで」
 誰かがたくさん使っちゃったみたいでと苦笑する彼女は、おそらくその理由を知らないのだろう。ソニアが初日の食事で多量のスパイスが入ったスープを飲まされたことを知っているのは、自身と犯人、そして間近で見ていたラクスぐらいのものだ。犯人の目星も付いているけれど、問い詰めるまでには至っていない。
 以前は高価で取引されていた香辛料も、ファルツ家を始めとした貿易業のルート開拓の影響で庶民の手が届くものへと変わりつつある。気に入らない相手に恥をかかせるための道具に使われる程度には身近になったということだ。
「市場にはいろんなものが売っているんですよ。花嫁さまもいつか、一緒に行きましょうね」
「そうだね、行けるといいなあ」
 修道女でありながら、どうやら節制とは無縁でいるらしい。
 約束ですよと笑った彼女が小走りで離れていくのを見送り、同様に早足で行き来する神殿騎士たちを眺める。この騒動を作りだしたのがラクスであるというのだ。教会の代表である総大司教と建国者の血を引くアーシャ、そのふたつの立場は均衡している。ならばアーシャの花嫁となる女性は、いったいどれほどの身分となるのだろう。
(……おなかが痛くなりそう)
 胃痛持ちではないけれど、どうしても不安は尽きないのだった。



 ソニアの心配をよそに時がたち、太陽が西のかなたへと沈みきろうとしていた。そのころには騎士たちの騒々しさもあらかたのおさまりを見せており、普段どおりに夕食の時間を控えた神官たちが続々と広間に集まってくる。
 手持無沙汰になった挙句に一足早く席につくことにしたのだが、やはり落ち着かない。ソニアは所在なさげに立ちあがったり座ったりをくり返していた。
「そわそわするな、みっともない」
 隣の椅子に腰を下ろしたラクスに小声で注意される。ごめんなさいと謝ったあとに深い呼吸をして、ソニアはふたたび腰かけた。
 テーブルには端から料理が用意され、その横に置かれたろうそくと広間の壁に取り付けられた松明だけがあかあかと光を放っている。普通ならば頭上のシャンデリアが全体を照らしているはずだが、今宵はその明かりがひとつ残らず消されていた。
「シャンデリアに不調でもあったんですか?」
 ラクスよりも皿に声をひそめて問えば、すぐにわかると返された。
 それがなくとも、普段に比べて広間に待機している神殿騎士の人数が多い。給仕の少女たちがやりづらそうに料理の皿を運んでいるのが、傍目から見ている身にも伝わってくる。どこか申しわけない思いでそれを見つめているあいだにも食事の準備が着々と進み、やがて全員が席にそろった段階になって、となりで息をつく気配があった。静まった広間の中心に向かって、ラクスが口をひらく。
「昨夜、アーシャの庭園に何者かが侵入した」
 どよめきが走る。マティアスが咳払いでそれを治めると、ラクスはうなずいて続けた。
「周知のこととは思うが、あの場所に植えられているのは諸侯各位から信仰の証として寄贈されたものだ。彼ら無法者はその花を掘り起こし、盗み、さらに止めに入った者に暴力をふるって逃亡した。……あろうことかその蛮行の主は、ナヴィアに住まう神官のなかにいるという」
 ラクスの声は決して大声ではないが、広間のすみまで行き渡り、神官らを黙らせる。音の波が見えているかのように言葉を紡ぐラクスが、そこで目を細めた。
「今ここで名乗り出て懺悔するのであれば、慈悲深き女神はお赦しになるだろう。罪も不問とする。我がという者は」
 そう言ってからマティアスの席へと顔を向けた。彼もラクスの意図を察したようで、机に並ぶ神官たちを注意深くうかがう。アーシャの目の代わりを果たしているのだ。ソニアも固唾を飲んで見守っていたが、誰ひとりとして動きを見せる者はいない。
 結果が芳しくないと知ったラクスが、呆れたと言わんばかりに首を振る。
「あくまでも沈黙を貫くのであれば」
 突如、彼が左手をかかげた。壁際に待機していた騎士たちが、それを合図として机のろうそくを吹き消していく。壁の松明も消火され、あっという間に暗闇と動揺とが広間を包んだ。
 そのなかに、ソニアはただひとつ光るものを見る。隣り合って座るふたりの神官の靴もとだ。くぐもるような明るさにつられて誰もがふたりに目を向ける。ざわつきを感じたのか、ラクスはひそかに唇に笑みを浮かべた。
「無法者の正体は示された。女神はすべて見ておられる」
 そんな馬鹿なことがあるかと反論しようとした彼らを神殿騎士が捕らえ、身動きを封じる。マティアスが表情をゆがめて立ち上がった。
「彼らの処遇はご一任ください。教会の乱れは私の責任ゆえ。……ただ、納得のいかないのは私も同じこと。女神の意と仰るのはいささか強引に思われますが」
「あの庭の花には、太陽の光を溜めこんで暗闇に放つものがあります。その花も昨夜に盗まれていましたが、どうやら、痕跡はまだ残っていたようだ」
 ふたりの神官が苦虫をかみつぶしたような顔をする。見間違うことなどない、昨晩ソニアが止めにかかった者たちだ。
 ソニアが神官の顔を見て回り、犯人が彼らだと主張したところで、言い逃れの術はいくらでもあっただろう。証拠を叩きつけない限りは罰を下すこともできない。昼間の騒ぎも、シャンデリアのことも、夕食のスープが差し止められていたのも、この暗闇を作りだすためだったのだ。
「言葉が足りなかったことは詫びましょう。まだ疑念があればお答えしますが」
「……出過ぎたことを申しました。私も貴方のご意思をはかり損ねたようです」
 連れていけ、と指示したマティアスに従って、犯人たちが連れ出される。松明とろうそくに次々と火がともされ、広場はすぐに元の明るさを取り戻した。
 ぴんと伸ばしていた背筋を曲げて、ラクスがソニアに声をかける。
「間違いないな」
「はい。……あの、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
「まったくだ」
 そっけなく肩をすくめられる。そうしてラクスが手探りの食事を始めると、呆然と事の次第を眺めていた神官たちもぽつりぽつりとパンに手を伸ばすようになった。二度野菜を口に運んだところで、ソニアは顔を上げる。
「教会の方が全員、教えに従っているわけではないんですね」
「あれを神官の姿だと思われたくないけどな」ラクスはわずかに眉を寄せる。「教徒にも色々いる。教えを忠実に守る者、生活に組み入れる程度の者、頭の端に置いておくだけの者。人の心が見えない以上はいくら教えを徹底しても不貞を働く輩が出てくる」
 そこには諦めもあるのだ。ソニアは無言でパンをちぎった。右手に小さなかけらをつまんだままでうつむく。
「花は、戻ってくるでしょうか」
 さあなとラクスは答えて、息をつく。
「他の花はもう盗まれない。それで十分だ」
 こんなとき、彼の目にはなにもかも見えているのではないかと錯覚しそうになる。顔だけではなく、胸の奥にあるものまで覗かれているかのようだ。声の抑揚、震え、大きさ、そのひとつひとつに手掛かりを得て、心のなかの声ですら彼には聞こえているのではないか。
(じゅうぶん、か)
 昨夜、自分の手洗いでは落ちなかった修道服の汚れは、修道女たちの険しい表情のもとで丁寧に落とされていった。彼女らの入念な洗濯をかいくぐってこびりついたままの汚れが誇らしいものに感じられて、ソニアは部屋に置いてきた修道服に思いを巡らす。
 衣の汚れはソニアの生きた証だ。自分の存在さえも不安になるから、しるしをと願う。
 ミセラの名では上書きされないしるしが欲しい。不安定なまま宙に浮かんだこの身を、繋ぎとめるための。