文机の上には羊皮紙が敷かれ、まだ新しいろうそくが手元を照らしていた。
 窓の外は宵闇に落ちているけれど、女神の教えに従って眠りに就く者はここにはいない。屋敷を治めるファルツ公はもとよりノーディスの信者ではないのだった。彼の考えの持ちようがそのまま伝わったように、使用人たちは今宵も翌朝の支度にいそしんでいるだろう。机に向かう彼女もまた同じことだ。
 右手にペンを握り、先をインク壺に浸したうえで羊皮紙の上に文をつづる。形式めいた挨拶を書き連ねたところで息をついた。一度扉の外に足音のないのを確認して、さらにペンを走らせていく。
 ひと段落ついたところで、彼女――ファルツ公爵夫人は、ここにはいない娘のことを思った。
 ふたりの娘。ひとりは名前を失い、もうひとりはその名前を手に入れた。どちらが幸せだったのかなど考えはしない。ミセラの名を誰とも知らぬ少女に授けたのは賭けだったけれど、あれ以来教会から音沙汰のないことを見るに、おおよそうまくいっているのだろう。
(もう片方は、メリアンツの領の辺境……それとも、クェリアにでも住みついたのかしらねえ)
 アーシャラフトを離れても、世間知らずな娘の身では行くところなど限られる。たとえ同行人があったとて、旅慣れない少女が共にいては海を越えるには至らないだろう。どこかで妥協して、みすぼらしく生活を営むのが関の山だ。
 手元にある書状に記された宛名は、隣国メリアンツの次期皇帝のものだった。先代のアーシャと期を同じくして崩御した前皇帝のあとを継ぐのは、三十を超えたばかりの第一皇子だという。宗教的権威によって世界を掌握するアーシャラフトはもちろんのことだが、武力をもって数々の民族を傘下に置いた大帝国メリアンツとも協定を結んでおかねば、いつファルツの名に影が落ちるとも知れない。策は早くから取っておくべきだ。
(あの子なんてどうでもいいわ)
 コルネリアの意識に人の心のことなど存在しない。時代の流れが、ただこの手の上にあればいい。


     *


 ここ数日、取りかえもせずに使っていたためだろう。ろうそくは今晩で溶けきってしまいそうなほどに背を低くしていた。はじけた火花の音にラクスが身じろぎする。肌触りのいい衣をまとっているのはソニアもラクスも同じことで、彼が椅子の背もたれに体を預けると、その裾がさらりと流れていった。
「花を植えたんだ」
 そう言って彼は瞳を閉じる。やわらかくなった声が、彼の心を示していた。
「アーシャの庭に。木の陰に、一本だけ。そこを目印にしようって」
 彼は待ち続けたのかもしれない。ミセラの死を聞かされるまで、その花の前で、ずっと。ミセラの足音を待ちながら、不明確な視界で、ただ一本の花を見つめていたのかもしれない。
 まぶたをひらかないラクスの呼吸は、そのまま眠りに就いてしまいそうなほど安らかだった。
 目を閉じていようがいまいが彼の視界はほとんど変化がないのだろうと思う。輪郭すらも揺らめく世界で、彼は音だけを頼って生きてきたのだ。
「もう誰も、あそこには入らないだろうけど」
 ラクスがそっと空色の瞳をひらく。それをきっかけにしたように、書庫に闇がおりた。
「……っ」
 出かけた悲鳴を飲みこんで両手で口元をおさえる。驚いて立ち上がってしまったせいか、それまで座っていた古い椅子はうしろに倒れて硬い音を立てた。奪われた視界の中で、ソニアはその場に膝をついた。ろうそくの火が消えたのだと気付くも、窓からのぞく星明かりだけでは、とてもではないが動けない。
 暗闇には慣れていたはずだった。
 けれど一度光に触れた目は、もとの暗がりを受けつけない。
 廊下の外から遠のいていく足音があって、見張りの彼がどこかへ駆けていったのだと知る。新しい明かりを取りに行ったのだろうが、それが届くまでこうしていろというのは酷だ。手がかりもなく歩き回ろうものなら書棚にぶつかってしまうのが目に見えている。
「暗くなったけど、なにか……どうした?」
 闇の向こうからラクスの声がして、ソニアは同じ方向に答えを返す。
「ろうそくが消えたみたいです。ずっと使っていたから、もう終わるとは思っていたけど」
「なにも見えないのか」
 彼には、分からないのだ。明暗を確認できたとしても。
「見えません。わたし、には」
 無意識に声が震えて、しっかりしろと自分に活を入れる。体の震える理由も分かっているから余計に腹立たしかった。
(思いだしそうになるからだ)
 世界が闇に閉ざされたあのときを。寒さと暗さに包まれて、ふと何も感じなくなったあの一瞬を。
 馬鹿げている、と思う。居場所を手に入れたそばからそれを手放すことを恐れている。自分のなかの当たり前が、いつのまにかすげ替えられていた。そうしてきれいさっぱり忘れようとしている。
 忘れるなと声がした。自分を責め立てる声が。お前のいるべき場所はここじゃない、光の届かない闇の中だ。それは自分の発した声かもしれなかった。
(いやだ)
 まだ陽だまりに身を寄せていたい。どんな視線を浴びてもいいから、わたしは。
 椅子を引きずる音があって、過敏になった体がびくりと震えた。かすかな衣擦れと、確かめるように石の床を叩く靴音。視界が戻らない世界では、ひとつひとつの響きが確かなものになる。
 音しか存在しない世界。――これが、彼の。
「……生きてみろ」
 耳の横に声が落ちた。体に触れることもなく、ただ声だけが降ってくる。
「ここにいてもいい。ミセラの名で、それでも生きると言うなら、生きてみろ」
 彼の声には痛みがない。耳を撫でて、その奥にしみこんでいく。彼が自身の耳を傷つけないようにと身に付けたのが、ささやきとも小声とも違う穏やかなこの声だったのだろう。次第に震えは消えていき、体から力が抜けてぺたりと尻をついた。
 隣にたたずむ彼へ言葉を返そうとしても、思いつくはしから転げ落ちていって声にできない。なにか、早く、と必死で考えて自分の衣のすそを握る。
 そのうしろの廊下に、足音が響くのを聞いた。
「アーシャ」
 廊下から光が漏れる。そしてすぐに書庫に明かりが戻ってきた。先の青年が持ってきた覆いつきのろうそくを、ソニアは呆然と見あげる。
「早く寝るんだ」
 言い残して、ラクスは横をすり抜け書庫を出ていった。
 ソニアが言葉に迷っている前で、青年は手元のろうそくを机の上においた。慌ててありがとうと声をかけると、彼は小さく頭を下げる。それから身を翻してあるじのあとを追っていった。夜目がきくのだろう、迷うことなく暗闇で歩を進めていく。
 明かりがないことに動揺したのは自分だけだということに気付いてしまうと、なんだか急に恥ずかしさがこみ上げる。ソニアは用意された火を見つめ、ほうとため息をついた。


     *


「ああ、アーシャ。どちらに?」
 アーシャの自室の前で待っていたエリーゼが、レオンを伴って戻ってきたラクスに声をかけた。むすっとした表情で歩いている彼に気付いて眉をひそめる。
「散歩をしていたんだ。気分転換どころか、どっと疲れた」
「お疲れ様でした。今日はもうお休みになりますか?」
「いや。なにか用があってきたんだろう?」
 問いかけると、エリーゼはラクスの手を取った。怪訝そうにする彼に、一枚の書状を握らせる。ラクスがそれを目のすぐ近くまで寄せるのを待って、ゆるく両腕を組んだ。
「ファルツ公爵からです。教会への正式な書状として、ミセラ様の一件をどう扱うか決められたようで」
「その結果が賊の誘拐か」
 紙面に目を走らせてから、ラクスはその書状をおろした。
 ファルツ家に支援を抱いたのであろう何者かによるミセラの誘拐事件、それによって死を覚悟された彼女が、賊の監禁から逃げ出してきた。それがファルツ家の作り上げた筋書きだった。ミセラの身は引き続きアーシャラフトに預けるという内容で閉じられている。
「彼女は、人だろう」
 絞りだすように言った。書状を握った手に力がこもって、紙にしわが寄る。
「アーシャでも貴族でもない。民として、平凡に暮らすべきだった人間じゃないのか」
 彼に呼びかけようとしたエリーゼをレオンが手で制する。そして小さく首を振った。黙りこんだ彼女に、ラクスは書状を丸めて返す。
「マティアスどのには明朝に連絡を。今日はもう遅い」
 こわばった顔で言って自室に入っていったあるじに、エリーゼはおやすみなさいませと声をかける。
 自分より幾分か背の高いレオンを見あげ、なにも問わずに顔をそむけた。言葉足らずのこの青年を問いつめたところでアーシャに尋ねろの一点張りになるのはわかりきっている。
 冬の冷気に身を震わせれば、もう寝ろとぶっきらぼうに背を向けられた。
 案外、理解していないだけなのかもしれない。むやみに触れないことをよしとしたのか。人の心の機微に疎いひとだから、とエリーゼは肩を落とした。