雪色の花
 屋内で浴びる冬に入ってからの陽気は、他のいつのそれよりも心地がよかった。吸いこんだ空気は透きとおるような冷たさを持っているのに、頭の上からおりてくる陽光のあたたかさが体を包みこんでくるのだ。まぶたが重くなれば、すぐに頭が垂れてきて、かくりと落ちたところで目を覚ます。両手でぱちぱちと頬を打っても意識ははっきりしない。またすぐに眠気が忍び寄ってきて頭をもたげることになる。
「次は単語のつづりですね、話せるのであれば簡単ですから……ソニア様」
 呆れた声で名前を呼んだエリーゼが、ソニアの肩を叩く。はっとして彼女を見あげると、書物の右端を指でつつかれた。慌てて書物のページをめくり、ひきつった苦笑いを浮かべてみせる。
 頭を二本の指でついてため息をつく、その表情が険しい。暇な時間を作って勉強を見にきてくれるのはとても嬉しいと毎度伝えてはいるのだけれど、感謝の言葉だけでは分にあわないのも確かだった。原因は自分が眠気に耐えられないところにあると分かっているので、ソニアはだんだんと口元をさげ、うつむくほかにない。
「ごめんなさい」
「静かですし、この日よりですから。眠くなるのはわかりますが」
 それにしてもとエリーゼはソニアの横に座る。
 ナヴィア宮殿の一室にある書庫を利用しようと決めたのはソニアで、食事のあいだの時間のほとんどを勉強に割りあてていた。朝食が済めばすぐに書庫に向かい、昼食が終われば一度部屋に戻って復習。そんな生活が一週間続いて、まだ飽きていない自分には驚いた。それほど学ぶべきことがあるのだと実感する。
 学校には行っていなかった。行けなかった、というのが正しい。
 修道院や都市の学校にはもちろんそれなりのお金が必要で、母はもともと通わせるつもりもなかったらしかった。街路に出て物乞いをするような日常だったから当然のことだ。それがここにきて教養をつけろと言われても、文字も書けない、読めないではひとりで勉強するにも無理がある。様子を見にきたエリーゼに泣きつかなければ、今ごろ書庫で日干しになっていただろう。
「夜遅くまでなにをしていらっしゃるんです? 興じるようなものはなにもないでしょうに」
「その……勉強、を」
「勉強って、いつまでですか」
「眠くなるまで……昨日は、お日様が昇るまででした」
 言葉に詰まりながら白状すると、エリーゼが目を丸くした。
「一晩中じゃありませんか! 眠くなるのも当然ですよ、まったく」
 そうして頭を抱えられては恐縮するしかない。
 朝食のあと、昼食のあとはもちろんなのだから、夕食のあとも書庫に走るのは自然な流れだった。自分のなかに日課ができてしまっていて、夕食までに分からなかったところを書庫で再確認するようにしている。誰に見張られているというわけでもないので、睡眠時間はその気になればいくらでも削れるのだった。
「熱心になるのは素晴らしいことですけれど、それが翌日に響いては意味がないでしょう」
「……ごめんなさい」
 頭を下げると、エリーゼがはあとため息をつく。
「言っても直さないでしょう」
「た、たぶん……」
「それでは、ごめんなさいは聞きません。これでは勉強も進みませんから、今日は終わりにします」
「でも、まだ」
 外を見る。日はまだ空の頂上にはいない。午前中は別の神殿騎士にアーシャの身辺警護を任せていると言っていたから、今日も太陽が昇りきるまでは文字の読み書きを教わる気でいた。ちゃんと起きていますと顔を青くして言うと、エリーゼは首を振った。
「ですから、たまには違う話をと。息抜きも必要ですから」
 彼女の視線が、ソニアが首から下げた銀薔薇に注がれる。白い修道服の上では目立って仕方がないそれは、肌身離さずつけているようにとエリーゼからきつく言われたものだ。
「その首飾りをかけていた方のことをお話ししましょうか」
「……ミセラさんですか?」
 周りに気を配る。完全に人の気配のない書庫ではあるが、どこに耳があるとも知れない。しんと静まり返っていることを確認するも、ソニアは思わず小声になった。
「でも、ここには来たことがない、ってコルネリアさんが」
「ええ、表では」エリーゼが肩をすくめる。「けれどあの方は、つい最近まではよくこの宮殿にいらっしゃっていたようでした。どこからかアーシャの花園を訪れ、ふたりきりで遊ばれて。神殿の誰も気付きはしませんでした」
 えっ、と声が漏れた。それが思いのほか大きくなったので、ソニアは意識してさらに声をひそめる。
「いけないこと、ですよね……?」
「その言葉の甘い響きは、誰しもが知ることではありませんか?」
 妖しい笑みを浮かべた彼女に、言葉を返せない。それを肯定と取ったのだろう、エリーゼはぴんと指を立てた。
「アーシャもまたそのひとりでした。秘密にするようにと誓いを立てさせ、楽しそうにお話をされていたのを憶えています」
「止めたんですか?」
「いいえ。アーシャは外に出ることの許されない身でしたので、その接触ぐらいはと黙認していました。……それに、止めるまでもないことでした。ミセラ様の訪問は一年と経たずに途絶え、それ以来アーシャの花園にお姿を現すことはなくなりましたから」
 どうして、と問うと、エリーゼはゆるく首を振る。
「理由までは。アーシャも同様だったのでしょう、ミセラ様の訪れない花園でぼんやりとなさることが多くなりました。そのあとの失踪です。ファルツ家からミセラ様が亡くなったと報せを受けてからはアーシャが花園を訪れることもなくなりました」
「ふたりは……お友だち、だったんですか」
 それとも、こいびと。
 言葉は頭のなかで空回りして、そこに意味をこめて口にすることはできなかった。自分には友だちもいなかったけれど、こちらのほうがまだ身近にある気がした。ソニアの心を知ってか知らずかエリーゼは目を細める。
「ええ、年頃の近いご友人だったのだと思います。アーシャにとっては初めての。あの方は目が不自由ですから、外に出ることもままなりませんので」
 身分のこともあるのだろうと思った。
 聖職者という枠にとらわれない座、血で受け継がれるアーシャの地位。不明確な立場は、それでいて、きわめて高位であることだけが確かだ。女神に従う年若い神官では彼のもとには近寄れないだろうし、かといって年老いた神官が彼と友だちという関係を結べるはずがない。身分差と敬遠のために、彼はひとりだった。
「エリーゼさんは」
「エリーゼ、と」
「……エリーゼ、は。ラクスのお友だちには、なれなかったんですか」
 問うと、寂しそうに笑う。触れてはならないことだと思い知る。
 アーシャは神のようなひとだ。人のなかの神。だからこそ崇められ、突き放される。彼の言葉はアーシャの言葉、彼の行動はアーシャの行動となり、心は意味をなさなくなった。ラクスという名の少年は、きっと、ミセラに出会うまでは死んでしまっていたのだろう。
 流れ落ちた灰の髪をエリーゼが耳にかける。そうしてやっと、彼女が顔を伏せたことがわかった。
「あの方は孤独です。傍にお仕えする私たちでも、アーシャの保護者になることすら叶いませんでした。それを切り開いたのがミセラ様でしたから、並々ならぬご好意を抱かれていたことと思います」
 それからふわりと表情を和らげて、ソニアを見つめる。青い瞳はラクスに比べてくすんだ色をしていて、そこにも灰が混じっているように思えた。
「ミセラ様を超えるようにとは申しません。ソニア様が思うように、行動なさればよろしいかと」
 彼女の言葉が許しのように感じて、胸がつまった。じんと沁みた温もりは陽光と同じで、冷えた体を包みこんでくれる。陽だまりは、居場所だ。
 食事を食べることも、ほつれのない服を着ることも、生きて文字を学ぶことも許されている。受けた恩恵を返すことができない以上、逃げることだけはすまいと決めた。
 だからときどき不安になる。
「わたしでも、いいんでしょうか」
 漏れてしまったつぶやきに、エリーゼは目をぱちくりとさせた。そうですねえとそらを見て、立ちあがる。
「少し歩きましょう。書庫にこもっていては毒ですから」
「毒、って」
 髪を揺らしてふり返る彼女の動きは、女性らしい優雅なもので。
 長い指で自分の胸に触れたエリーゼは首をかしげて笑ってみせた。
「心が、蝕まれてしまいます」