ある寒い日
「ぼくの、父さま、と、母さま、は、とっても、なかよし、ですっ……と!」
 ペンを右手に握りしめ、まっさらな紙面にインクのしみを残しながら書き綴る。口に出したとおりの一文を書き終えたところで、満足そうに少年は顔を上げた。
 冷気に触れて薔薇色に上気した頬、きらきらと輝く冬空色の瞳。世界中の光を集めて産まれてきたかのような彼の頭には、対をなすかのようにやわらかな夜色の髪が流れている。見れば見るほどそっくりだ、と、白紙の本の持ち主である青年は嘆息する。
「満足したか?」
「まーだ! もっともっと書くことがあるんだよ! カミルの本、いっぱいにうめてあげるからね!」
「いいから返せって。……あと“さん”を付けろって言っただろ。二十いくつは年上だぞ」
 頬づえをついたまま釘を刺せば、きょとんとしたまなざしが返ってくる。
「でも、父さまが、カミルはカミルでいいって。あんなやつにケイイをひょうするひつようはないって」
 一字一句同じ台詞を吐く、小憎たらしい澄まし顔が目に浮かぶ。ほーう、と低い声で相槌を打って、「母さまはそれについてどう言ってた?」と問いかける。少年は瞬く間に顔を輝かせた。
「ルッツはむずかしい言葉をおぼえたのねって!」
「……揃いも揃って」
 カミルは頭を抱えるほかにない。最初の子供が可愛くて仕方がないのは百歩譲って理解するとしても、この子煩悩ぶりはどうだ。せめて年上の相手に対する礼儀ぐらいは身に付けさせろと思うものの、当の父親に進言しようものなら嘲笑が返ってくるだけなのだろう。
 親の愛情を身一杯に受けて育ったのであろう少年、ルッツは、その容貌に限らず、彼らの価値観もそっくりそのまま受け継いだらしい。勉強の合間を縫っては書庫へと顔をのぞかせて、書庫整理にいそしむカミルを呼び止めては仕事を休止にさせてしまうのだ。
(いちいち相手しなくてもいいようなもんだけどなあ、俺も)
 自分でも理解してはいた。一度すげなくあしらおうとしたこともある。
 だが小さな体をぽつりと縮ませ、肩を震わせて、その透明な瞳にいっぱいに涙を浮かべられると、もうそこらに放り出してはおけなくなるのだ。自分がこうまで世話焼きだなどと、彼が生まれてくるまで考えもしなかったことだった。
 はあ、と二度目のため息をつく。今も懸命に言葉を絞りだそうとしているルッツの手からペンを取りあげ、続いて本を手元に寄せた。抗議の声を上げようと開きかけた少年の口を「いいから」と黙らせると、カミルは自分の膝元に本を乗せる。
「お前に任せると日が暮れる。こっちで書いてやるから喋れ」
「えー……」
「聞けないなら仕事の邪魔するな、歴史の先生を呼ぶぞ。俺はあの人とは仲良しだから、呼べばすぐに……」
 わー! とたちまちに慌てたルッツが、ぴんと背筋を伸ばして首を振る。今大声を出したところで飛んでくるのは護衛に付けられた神殿騎士ぐらいのものだろうが、まだ五つの彼には理解できていないのだろう。カミルはほくそ笑みながらペンをインク壺にひたす。
「それじゃあ、そうだな、昨日あったことを言ってみな」
「きのう? おきて、ごはんを食べて、すうじのお勉強をして、」
「……ああそうだな、俺が悪かったな。言い直す。昨日、何か、いつもと違うことはあったか?」
「違うことー? ええっと」
 眉にしわを寄せて考えこんでしまったルッツをよそに、カミルは手元の本のページをめくっていた。少年の殴り書きの間に、自分の字で簡潔な記録が残されている。
 もう十数冊目にもなるそれらの日記にこれといって使い道はない。死の間際にはあちこちの知人に受け渡そうと考えている程度のものだ。いつか後世の歴史家がそれを見つけたならば、歴史の影に消えるはずであったアーシャと花嫁の暮らしぶりを明らかにするような資料になるだろう。もしくは教会の熱心な信者が集めて、不謹慎だと焼きつくしてしまうかもしれない。朽ちて土となるならそれもよし、だ。
 ただ、未来へと繋ぐこと。時間の流れのうちに呑みこまれて当然のひとときを、巨大な織物に織り込まれる一本の糸に託すようなものだと考えていた。いつか、そのひと筋を引っぱり上げてくれる酔狂な人間が現れたなら、自分の無為な趣味にも意味が生まれるだろうと。
 ぼんやりとページを繰っていたカミルの前で、そうだ、と少年が声を上げる。「思いついたか」と耳を傾けてやると大きくうなずいた。
「きのうね、母さまがお風邪をひいたんだ」
「風邪? 大丈夫か」
「そのはなしをするんだよ」ルッツはむうと頬を膨らませたが、すぐに気を取り直して口を開く。「さむくなってきたわねって。ルッツの服もあたたかいものにしましょうね、って言ってくれたの。そうしたら廊下で父さまと会って」
「おう」
 花嫁が風邪、症状は軽い様子。報告書じみた文言はどうやら治りそうにない。書きとめながらうなずいていると、ルッツは気を良くしたのか饒舌になる。
「母さまがまたくしゃみをしたから、父さまはびっくりしたみたい。レオンに上着をもってくるように言ったんだけど、母様がそんなことしなくてもいいって言うから、レオンは何もできなくて」
「だろうなあ」
「でしょ。だから父さまは、母さまを抱っこしてあげたんだ」
「……うん?」
 カミルの眉にしわが寄る。
 抱きあげられる、はずがない。ならばその場で抱きしめたのだ――まだ明るいうちから、往来で、人の目も気にせず。カミルの渋い顔に気付きもせず、ルッツは鼻高々に続ける。
「母さまはまっかで、エリーゼは遠くを見てて、レオンはいつもと変わらなかったけど、父さまには見えてないんだよね。『暖まったか』って言って、それから」
「……もういい、もういいルッツ、おしまいだ」
「えー?」
 不満げに唇を尖らせたルッツに断固として首を振った。
 これ以上は耳が腐り落ちる。そもそもどうして他人の惚気話を書きとめねばならないというのだ。今しがた書いたばかりの文章の上に線を引いて、カミルは大きな三度目のため息をついた。
「父さまと……母さまにも言っとけ、ルッツ」
「なあに?」
 素直に首を傾げるルッツに、ありったけの苦情を込めて言う。

「――こんの馬鹿夫婦、ってな」

(2013年・いい夫婦の日)