ソニアたちを迎えた修道女に従って礼拝堂に祈りをささげ、その奥に繋がる扉から廊下へ抜ける。先導する彼女はメリアンツの出身だった。以前は公に奨励されることのなかった女神信仰であるが、アーシャラフトとの間に新たに友好条約が交わされて以来、国内での修道院や教会の建立も手伝って少しずつ民間に浸透し始めている。ラクスが訪問しているのも、先日新たに建てられた教会であるという。
 修道院のなかを眺めやり、三年前の面影が見えないほどに美しく磨かれた調度に何度目かの感心をした。もう誰も床の上で眠る者はいないけれど、たとえ寝転がったとしても泥がまとわりつくようなことはないだろう。
 廊下を抜けて、ソニアたちは一つの扉の前にたどり着く。静けさを保っていた礼拝堂とは打って変わって、その扉の向こう側からは朗らかな笑い声が響いていた。ソニアは修道女と顔を見合わせてから、その扉を押し開く。
「ソニアお姉ちゃん!」
 部屋に入るや否や少女に飛び付かれた。どん、と軽くない衝撃を受けて思わずよろめいてしまう。腰のあたりにある彼女の頭を撫でてやりながら室内を見回せば、目を輝かせた子供たちの顔が目に入った。
「こんにちは、みんな。ごめんなさい、少し遅くなった?」
 揃ってぶんぶんと首を振られた。ソニアは腰に抱きついた少女を引きずるようにして、部屋の中心まで歩いていく。
 集っている子供たちの誰もが、かつてこの修道院でソニアと暮らしていた者たちだ。ぼろきれ同然だった服装は簡素な修道服に様変わりし、伸び放題だった髪もきちんと切りそろえられている。食事の支給も受けているのだろう、やつれた顔をしている子供はもう誰もいなかった。
 ひとりひとりの顔と名前を一致させながら人数を数えるが、ふたり足りないのに気付いて首をひねる。
「ロルフとヘレナはどうしたの?」
「奥にいるよ。ルッツと一緒」
「それじゃあ様子を見てこようかな」
 腰の少女に言い聞かせて手を離してもらい、ソニアは部屋を横切る。
 扉に手をかける前に耳を澄まして、中から泣き声がしないことに安堵の息を漏らした。そのまま音をたてないように扉を開くと、ひとつのベッドの両脇に寄りそったふたりが同時に顔を上げた。そろそろと中に入って彼らに近寄る。
 ベッドの中央には赤子が眠っている。目蓋を閉ざしたまま手足を動かして、夢の世界を泳いでいるのだろう。鼻から漏れる声は幸せそうだった。
「……お姉さんが来るなら、起こしておいた方が良かったかしら」
 軽く眉根を寄せたヘレナが小声で言った。赤子の寝顔は眠気を誘うらしく、眠たげに目をこすっている。
「ルッツ、さっきまで大泣きしてたんだ。お母さんが来るからいい子にしようって思ったんじゃないか」
 ロルフが肩をすくめる。それに無意識に反応したのか、赤ん坊はぱくぱくと口を動かした。じんわりと広がった波紋のような幸せが、三人にほほ笑みを浮かべさせる。
 毛布の中のルッツ。半年前に命を受けたばかりの、ラクスとソニアのひとり息子だ。
 くしゃくしゃになった髪はソニアと同じ黒い色、そして今はまぶたに包まれている瞳は、ラクスから受け継いだ青い色をしている。おとうさんとおかあさんから朝と夜をもらったのね、と、初孫を抱いたクラウディアはこれ以上ないほどに優しい顔で言っていた。
 そんなルッツを見守る子供たちは、今年で十五になる。ロルフは家に戻ってきた両親のもとで暮らすようになったようだが、暇を見つけてはたびたび修道院に顔を出しているらしい。ヘレナのほうは修道院の手伝いをする傍らで、勉学に精を出しているという。その上で子供と赤ん坊の相手をしていたならば疲れているのは当然だ。
「ふたりとも、ありがとう。あとはわたしが見ているから」
 それぞれにうなずいて、ふたりは忍び足で部屋を出ていった。ぱたり、と扉が閉じられて、息子とふたり、薄闇のなかに取り残される。ソニアはベッドの際に座り込み、浅い寝息を立てるルッツのてのひらに触れた。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんに遊んでもらえてよかったね、ルッツ」
 弱い力で指が握られ、すぐにほどかれる。小さな口があくびをした。彼の寝顔をしばらく見つめていたソニアの頭が、やがてゆるやかにベッドに落ちる。
 赤ん坊の体温に温められた布団に眠気が誘われたのか、それとも馬での移動に疲れ切っていたのか。まぶたが重くなり、いつしかソニアは眠りに落ちていた。



 純白のドレスをまとった花嫁が笑っている。花弁のような雪が風に散らされ、白日が視界を煌めきに閉じ込める。彼女は薄青い空のすべてをかき抱くように両手を伸ばし、夜色の長い髪をなびかせて、くるりくるりと踊るように回っている。
 ――アーシャ、アーシャ、見て。雪よ。雪が降っているわ。
 その地に名前が無かったころの物語。あるいは夢の彼方。記憶の見せた優しい幻。守護者を愛した最初の花嫁が、陰りのない光に包まれて笑う。踊り疲れた彼女がようやく足を止めたのは、金色の髪をした青年の胸の中だった。くすぐったそうに体をすくめて、あまやかに紡ぐ言葉は約束だった。
 ――誰もが愛している。この国を。あなたを。だから世界は、きっと優しい。
 空から白い手が伸ばされた気がした。その指先が天に掲げられた花嫁の手に触れた瞬間、世界は真白に染められる。光の奔流に呑まれていく。

 温かい夢を、見ていた気がした。



 まどろみの向こうに泣き声が聞こえる。ぼんやりとした意識が形を取り始めるころに、ソニアは薄く両目を開いた。これはぐずり声だろうか、と考えながら瞬きをして、ルッツ、と吐息だけで呟いた。おぎゃあ、おぎゃあ、と母を求める声が降ってくる。
(……降ってくる?)
 あれ、と思って、次の瞬間に覚醒した。
「ルッツ!」
 顔を跳ねあげて息子を探す。ベッドに眠っていたはずの彼は、誰かによって抱えあげられていた。
 視界の向こうに立つ修道服から視線を上げていって、見慣れた金色にソニアは目を丸くする。赤ん坊の泣き声はその陽だまりの向こう側から聞こえてくるのだ。ソニアの声に気がついて、彼はため息とともにふり返る。
「きみじゃないと駄目だな。泣きやまない」
 抱きかかえた腕が違うことが機嫌を損ねていたのだろう。ソニアがルッツを受け取って胸に抱くと、泣き声は次第に収まっていった。彼は泣きはらした目をぱちぱちと瞬かせ、あー、と言葉にならない声を漏らす。
 ルッツを落ち着かせようとその体を揺らしてやりながら、ソニアは「どうして?」と尋ねた。言葉足らずの問いの意図を察した青年が、ふっと雰囲気を柔らかくする。
「アーシャラフトに帰ろうとしたら、ルッツの泣き声が聞こえたんだ。まさかきみがいるとは思わなかった」
 最後の一言がちくりと刺す。思わず唇を尖らせた。
「……嘘でも、会いに来たって言ってくれませんか?」
 きょとんとした顔をされる。言ってしまってからすぐに恥ずかしさと後悔が襲ってきた。何も言っていません、嘘です、聞かなかったことにしてください、と早口で言って顔をそむける。勝手に熱を帯びる耳を覆おうにも、両手がルッツを抱えてしまっていて叶わない。いたたまれさが加速して逃げ出したい気持ちに駆られた。
 逃げ道を失ったソニアの視界の外で、ラクスがため息とも笑いとも取れない吐息を漏らした。
「すまない、言い直す」
「い……いいです、なにも」
 慌てて首を振った。けれど否定は彼に届かない。考えるような間があって、ふわりと笑まれる。
「偶然に感謝する。ここできみに会えてよかった」
「……っ!」
 何かがかっと喉元までせり上がる。それは今すぐ走って外へ飛び出し、大声で叫びだしたくなるような衝動だった。小刻みに体を震わせるソニアに気付いてはいないのだろう、ラクスは平然とした表情をしている。たとえ気付いていたとて理解はできないのだ。そういう人だと、この数年間で思い知っている。
「わたし、も、会いたかった……です」
 精一杯を伝えた声はか細い。どうせ彼の耳には届いてしまうのだから、堂々と伝えてしまえばいいのに。恥ずかしさと自己嫌悪で埋めつくされたソニアの頭の上から、問いがひとつ、落ちてきた。
「そこにいるな」
 それは確認。あるいは確信。ソニアが顔を上げようとしたところで、目の前が真っ白に染まった。
 肌触りのいい布が擦れて、初めて抱き込まれだのだと気付く。ルッツが押しつぶされてしまわないように力を加減しているくせに、慌てたソニアが抜け出すことは許さなかった。その上で無言になられては、腕の中のソニアは呼吸をすることもままならない。
(ああ、もう、ずるい)
 再認識する。彼は本当にずるい人だ。
 腕が優しいから泣きそうになる。髪を梳く指先は不器用だった。触れる部分のひとつひとつから、その温もりを感じて仕方がない。
 もぞりと体制を変える。離れかけた彼に、追いすがるようにして身を寄せた。体を揺らされたルッツが小さく非難の声を上げる。
(ごめんね、ルッツ)
 少しだけ許して――そして、願いを叶えて。
 伝わらないなら乞うけれど、今は祈るように瞳を閉じる。
(――呼んで)
 光を灯すその声で、どうか唯一の名を。
 願いがかなうまであと少し。
 小さな天使が、胸の中で笑った気がした。