逃げ出した。というのは、どういうことだ。
 公爵の娘、アーシャの花嫁。それがどれほどの立場か。ソニアのような貧しい者が見あげても瞳に映ることすらない高み、望むことすらおこがましいようなものではないのか。誰もが求め焦がれるようなその場所を捨てていったとは。
「どうしてそんなことを」
「言ったでしょう? わからない、と」
 コルネリアが浅くため息をつく。
「あの子はわたくしに似てはねっ返りだから、背負わされていたものが嫌だったのかもしれないわ」
 でも、と反論しかけて、すぐに顔をそむけた。
 わがままだとは言えはしない。そう言えるほど彼女を知っているわけではない。育った環境が変われば望むものも変わるだろう。ミセラと自分は、きっと、相容れない。想像ができたとて、理解も共感もできないはずだ。
「あの子のことはどうでもいいの」
 そう吐き捨てられた言葉は本心だろう。彼女はミセラを名前で呼ばない。
 コルネリアはソファに体を預けた。細身の体はやわらかい背もたれにも深く沈むことはなく、ひとりの母親としての老いを感じさせる。けれどそれは衰えとは別のところにあるもので、彼女の過ごしたであろう長い年月は青い眼差しに深みを増し、まとう雰囲気に厳格さを匂わせていた。
「わたくしが話したいのは、今までではなくこれからのことです」
 壁の時計が時を刻む音が、いっそう重く響いた気がした。コルネリアが両手を組んで、ソニアの瞳をのぞき込むようにした。
「率直に言いましょう。あなた、わたくしの子になる気はないかしら」
 正気を疑うようなことを、不敵な笑みとともに。
 なにも言えなくなったソニアをうかがって、コルネリアはふっと息をはきだした。
「養子ではありません。もとよりわたくしの娘だった者、ミセラとして。ソニアの名前も過去も捨てて、わたくしの娘として生きる気はないかしら」
「それは」言葉に迷う。「いなくなったミセラさんの、身代わりということですか?」
 ええ、とコルネリアはためらいもなくうなずいて、ふたたび銀薔薇の首飾りを手にする。鎖の上方を両手で取りあげたために薔薇のモチーフが大きく揺れた。それにともなって説明を求めさまようソニアの目を彼女はしかととらえ、しかし答えを与えるでもなく鼻をひくつかせる。
 嘲笑だ、と感づいた。
 同じ視線なら、ソニアは何度も、それこそ毎日のように浴びてきた。自分にその目を向けたこのひとは、もとより決して味方ではなかった。娘となれと言ったところで、彼女にとってそれは慈悲ではない。ならば、彼女が望むのは自身の利だ。
(でも、なぜ)
 彼女が、公爵の夫人たるコルネリアが求めるものとはなんだ。あり余る富を掌握しているのであろう彼女が、ミセラと間違えられただけの貧しい子供を、その身代わりとして使う理由とは。逆に、ソニアのような身元の知れない行き倒れであった必要性とは。――思いあたって、目を剥いた。
「……アーシャの花嫁に、わたしを?」
 コルネリアが唇の端をつり上げる。それで確信した。
 富、名声。ふたつを得た者がそれを盤石なものとするために、他人に奪われないよう懐に留めるための権力が要る。ファルツ家がアーシャの花嫁を出したともなれば、その地位は安泰のものとなるだろう。アーシャラフトの神官たちはいま、ソニアこそがミセラなのだと信じている。ソニア自身が声高に別人だと訴えないかぎり疑う者はいない。
 戦うすべを持たない女性がもてはやされるのは、その身に価値が、男に嫁がせるための利用価値があるからだ。それはソニアの母のような下町の女、そしてミセラのような上流階級の令嬢とて同じこと。身を売り、心を売り、生きていくほかに道はないのだから。
 それこそが愛だと母は言った。立場で、色香で、言葉で。自らにしばりつけてさえしまえば、それがすなわち愛なのだと。
 ソニアはきりと歯を食いしばった。コルネリアはそれに気付かない様子で、もしくは分かっていながらも、嫣然と微笑んでみせる。
「あなたに帰る場所はないのでしょう? 行き倒れるような身の上では、従うほかにないのではなくて?」
「いつか、ばれてしまうに決まっています」
 傾いている。傾かされている、望まぬほうへ。
 自分だけは、と、思っていたことを否めない。母は彼女の言うところの愛を求めすぎたから、ああして男に溺れていったのだと。何人もの男の末に神官の子供を宿し、産み落としてしまったせいで、彼女はこの国すらも追い出された。
 ならばそれを欲しなかった自分が死ぬときは、ひとりで飢えて転がるのだと信じていた。そしてあそこで死ぬはずだったのだ。
(違う)
 心のうちの誰かが、馬鹿にするように笑って首を振る。ソニアはあのとき死んだじゃないか、と。拾われたのは、救われたのは、“死んだと思われていたミセラ”だった。ぼろぼろの服をまとったあの少女は、大聖堂の前で確かに消えていった。
「その心配はありませんよ」
 ソニアの思考に拍車をかけるのは、コルネリアの甘いささやきだ。
「あの子は決して教会に顔を見せたことはない。だから、知るはずがないの。アーシャも教徒たちも、みな。あなたがなり代わっても、誰も気付くはずがない。認めておしまいなさい、あなたはここ以外では生きていけないのよ」
「……もともと、死ぬはずだった命です」
「そして生かされた命でしょう。わたくしが、あなたに、居場所を与えてあげる」
 心のふるえる音がした。
 胸の奥のやわらかいところを、そっとつつかれる。爪を立てて傷をつけたうえで、撫ぜるようになぞっていく。あふれだしたものまで見透かされて力が抜けた。
 居場所。なによりも求めたものをさしだされて。
「ミセラ」
 沈黙を返す。否定もできずに。
 コルネリアがはじめて、声を出して笑った。堕としたと言わんばかりの笑声が耳を舐めていった。
 彼女の手の中で揺れた薔薇の首飾りが、前ぶれもなく目の前におりてくる。あ、と思ったのはつかの間で、すぐに首に重みを感じた。衣ごしに触れた銀の冷たさにびくりと身をすくませる。
「どうしても嫌なら、あなた自身を捨てる必要はありません。あなたがミセラとして生きてくれれば、そう振る舞ってくれれば、それでいいの」
 かみ合わない歯が、幾度となくぶつかりあう。コルネリアが表情に浮かべるものは、もはや薄汚れた少女への嘲りではない。母の温もり、そして愛玩すべき少女をかき抱くかのような優しさだ。
 胸をかきむしりたくなるもどかしさに、声も出さないままに叫ぶ。
(今になって、どうして、そんなことを言うの――!)
 利用されるならばそれでもいい。拒否しなかったのは自分だ。だから家畜を相手にするように、飼い殺してくれればよかった。ミセラの生以外をみな否定してくれればよかった。そうすれば自分を殺すことができたかもしれなかった。宙ぶらりんになったソニアに、どうしてとどめを刺してくれない。
 コルネリアがソファから身を離す。ソニアはつられて顔を上げた。握りしめていた両手のひらに、いつの間にか深く爪のあとがついている。真っ白に染まっていたそれは、解放したその瞬間から徐々に赤へ、そして青へと色を変えていった。ああ、と思い出すようなコルネリアの声が続く。
「アーシャはこの話を聞いているでしょうね」
 はっとして扉をふり返る。するとコルネリアはくすりと笑った。
「知らないかしら。アーシャの耳は天の耳。アーシャラフトで彼に聞こえぬ音はない、と言われているの。かつての聖アーシャがそうであったように、アーシャの血の流れる人間は、目の自由をほぼ失う代わりに絶対の耳を受け継ぐと」
「なら、どうしてこんな話を……!」
「聞こえていたからなんだというの?」
 喉がひくりと鳴る。言葉を失った。
 その言葉さえも、おそらくはアーシャに届いているのだろう。それを知っていながら、コルネリアは声を抑えるということをしない。畏れを捨てた人間はどこまでも傲慢になれる。
「あなたもアーシャも同じ。ああ、あの子はそれが嫌で逃げ出したのでしょうね」
 途端に応接室の壁が外側から殴られる。部屋の空気を揺らした拳の主を考えるまでもなかった。
 ソニアも、おそらくはミセラという彼女の娘さえ、コルネリアにとっては駒でしかないのだ。逆らう手段を端から奪い、従うほかにない状況をつくりあげて。そうして、あたかも救いの手を差し伸べるかのように道を与える。
 足を失った人形は、操り手に吊られるままに踊るしかない。アーシャもまたそうだというのか。
 ソニアはよろけながら立ちあがった。ちらとそれを見たコルネリアが扉のドアノブをひねる。押しひらかれた扉のむこうで、これ以上ないというほどに眉間にしわを寄せた少年が彼女をにらみつけていた。きつく口を結んで、彼の中で暴れているだろう感情をおさえつけて。
「彼女はわたくしの娘です。間違いはありません」
 少年が歯をかみしめるその音を確かに聞いた。肌を刺すような緊張のあとに、そうですか、とかすれた声で呟いたのは彼にとっての精いっぱいだったのだろう。コルネリアはその横を通り抜け壁の向こうに消えた。
 それを見送っていた少年の視線が左右に揺れながらソニアへ向かう。それは銀薔薇でも彼女の顔でもなく、わずかに外れたところで落ち着いた。そうしてやっと、彼が自分をにらむように見ていた理由に納得がいく。そうしなければ位置がつかめなかったのだ。
「目、が」
 一歩。踏み出したソニアの顔に、少年は今度こそ焦点を合わせる。
「――近づくな」
 腹から絞り出された声がソニアを貫いた。アーシャ、と咎めるエリーゼの声も無視して、少年は射抜かんばかりに強い視線を向ける。
「きみはミセラじゃない。その名を汚すな」
 唇を噛んだのは自分も彼も同じだ。
 その言葉を甘んじて受けるだけの覚悟はあった。けれど、耐えられるだけの強い心は持っていなかった。
「覚えておけ、どぶねずみ。ミセラは、そんなに、薄汚れてなんかいない」
 吐き捨てて少年は身を翻す。その刹那こわばった彼の顔が、目に焼きついた。
 彼はひらりと舞った修道服をいなし早足で遠ざかっていく。残されたエリーゼはソニアと彼とを見比べて、やがて苦しげにひとつ息をついた。あとを追う気配のない彼女に、いいんですか、と声をかけると重々しくうなずかれる。
「そこでなにがあったのかまでは、わたしは存じあげません。ですが、あなたは」
 ためらって、エリーゼは顔をそらした。
 その気づかいが今ではソニアを追いつめる。腹の中身が重さを増したように感じた。鶏や豚と同じように詰まった、人が生きるための器官すらも自分を苛んでいる。内からも外からも向けられる重みに潰されてしまいそうで震える息を吐いた。
 嘘をつきとおすことが、どれだけ苦しいものなのか。ぐらつく頭で思いを馳せながら。