どぶねずみの少女
 星のひかりの弱い夜だった。月は煌々として青白く、町に落とした影の輪郭をくっきりと縁どらせる。白い石造りの町並みも宵闇のなかではひたすらに冷たく、遮断するようなよそよそしさに満ちていた。
 石畳を踏んだ足にはすでに感覚がない。体を前に進めようと惰性で動かす手の先にもまた。うすい布で作られた服は汚れにまみれ、履いている靴はもう原形をとどめてはいなかった。貧しい生まれを示すように紺がかった黒髪は土ぼこりをまとってきしんでいる。その髪のあいだを、暗い空から吹きつけた息のつまるような風が通り抜けていった。
 アーシャラフトの冬には雪が降らない。他国に比べ温暖な風が、雪として生まれ落ちた雨粒をはしから溶かしていく。けれど空気は冷えていくばかりで花がひらくこともなく、そこにはからっぽの冬があるばかりだ。
 吐きだした息に白さが混じる。涙が涸れてしまえばあとは生理的な欲求ばかりがついてまわった。のどが渇いて、腹が減って。体は極限に達しても、心ではただひたすらに母を呼んでいた。
(お母さん)
 母は不幸だった。あの人はきっと守られたくて仕方がなかったのだ。生まれたその瞬間から寂しさの影がついてまわって、誰かがそばにいる温もりなどという根拠などあるはずのないものを求め続けた。
(わたしでは、いけなかった)
 彼女の孤独を満たすのは男でなければいけなかった。血の繋がらない相手でなければいけなかった。娘である自分ではそのどちらも満たすことはできなかった。だから、捨てられた。
 お金がないことも理由の一つになったのだとソニアは思う。アーシャラフトの民が信仰する女神ノーディス、その神官であった父との間に母は子ども――ソニアを産んだ。その背徳に耐えきれず父はどこかへ姿を消し、罪を問われた母はアーシャラフトを追放されたから、もとより家に蓄えなどあるわけがなかった。十七年ものあいだ育てられたことが奇跡だったのだ。
 風ばかりが吹きつける街並みのどこに目を向けても人気はない。神の教えがしみ込んだこのアーシャラフトでは、夜に目を覚ましている人間のほうが稀有だ。ノーディスのもたらした太陽と月は人を導くものであり、民は太陽とともに目覚め月に見守られて眠らねばならない。家々の間を歩いているはずなのに、人の息づく気配はまるでなかった。
 ひきずるように動かす足がひとつの建物の前で止まる。女神とその守護者を奉る者たちが住まう地、アーシャラフトの根幹をなす大聖堂だ。日中であれば荘厳さをかもしだすのであろう外観も、今やソニアにはそびえたつ大きな壁にしか見えなかった。
 十数名の司教と彼らを取りまとめる大司教、さらに教会の頂点に立つ総大司教。そしてノーディスを守護する責を負った立場の人間のみが、この大聖堂に立ち入ることを許されている。
 うっすらと覚えているものがたりだけを頼りに、ずっと歩いてきた。

「かみさま」

 ――わたしはあなたのそばでは生まれなかった。
 ――わたしはあなたに愛してはもらえなかった。
 がちがちと震えた歯のすきまから、は、と息を吐いた。目の端にあたたかいしずくが沁みて、まだ涙を流すことができたのだと気付いた。
 もう一度、もう一度生まれ変わるなら、しあわせになりたい。誰かを愛して、誰かに愛されて、居場所に迷うこともなく、ただそこにあるだけのしあわせが欲しい。となりにそれがあるのなら、どれだけ体が痛んでも、どれだけ飢えたとしても、乗り越える強さを持てる。たったひとつを、信じてゆける。

「かみ、さまぁ……!」

 かすれた声で叫ぶのは、母ではなかった。
 糾弾、慟哭。聖なる地でも少女ひとりすら救えないではないか。
 くらりと体が揺れて支える力もなく倒れこむ。硬い石畳にしたたかに頬を打ちつけた。頭を揺らすような衝撃があって、体を起こすこともできずにそのまま目を閉じた。
(暗い)
 目をひらいていても闇は体を覆って放さないのだ。日が昇ったとしても、たとえ母がそばにいたとしても。生きている限りまとい続けるこれが、ならば、母の感じていた孤独だ。
 ふわりと浮かぶような感覚があって、それからあとは落ちていくのみだった。眠りの淵に沈んでしまえば限りはない。もううつろにしか残っていなかった意識はやがて曖昧になって、冷えきった風の音も聞こえなくなり、そうしてすべてが黒く塗りつぶされた。
 雪が、降ればいいと思った。
 まっしろに。きっとまっしろに、染めあげてくれる。


 耳元で足音がしたのを、眠りに呑まれたソニアは聞いてはいなかった。大聖堂の白塗りの壁にはおよそそぐわぬすすけた外套をまとった少女が彼女を見下ろす。その外套とは比べものにならないほど薄汚れた衣服に包まれたソニアに目を落とし、少女は首飾りの先をそっと片手で握った。うすい花びらの一枚一枚まで表現された薔薇のモチーフは銀でつくられており、静かな輝きを放っている。
 逡巡したすえ、つぶやいた。

「いらないわ、こんなもの」

 首からそれをはずすと同時に頭上のフードがずり落ちる。広がった長い髪は宵闇、奇しくも足元に転がる少女と同じ色をしていた。けれど彼女の髪はつややかに流れ、その外套には決して似合わない光沢を持っている。
 少女は放るかのようにぞんざいな扱いでソニアの背に首飾りを落とす。それからひとつ息をついて、細い指でフードをつかんだ。その中に丁寧に髪を隠してから夜の中へと走り去る。

 ふたりの少女の、ひそやかな邂逅。
 それを知る者はひとりとしていない。