やっぱりきみのことは嫌いだよ、と、エイトに告げたのを最後に、ミサキは小走りで去っていった。台風のようであった彼女を見送って、イチカはひとつ息をつく。足音が遠ざかるのを待ち、エイトを仰いだ。
「それで? ミサキとなにを話していたの」
「何度も言いますけど、誤解です。泣かせるようなことはなにも」
「責めているわけじゃないわよ。あの子のことだから、あなたに喧嘩でもふっかけたんじゃないのかって訊いてるの。見たところ、いいところに収まったみたいだけど?」
イチカの目前での争いを避けたのはミサキだった。それが彼女なりの気遣いであったことにも気づいている。だからこそ、イチカも表立ってふたりの会話に首を突っ込むようなことはしなかったのだ。
エイトは考え込むそぶりを見せたのち、「ちょっと歩きましょうか」とイチカを誘う。彼が足を向けたのは広場中央に横たわる海だった。ささやかな風に揺らされて、水面には繰り返し波紋が浮かんでいる。エイトは掌を水に差し入れた。
「前にも一緒にここに来ましたね。イチカが熱を出した、その次の日」
海に落ち、熱を出した挙句、初対面の相手に縋って泣いた二日間。この先思い出すたびに頭を抱えたくなるだろう記憶だった。イチカが渋々うなずく傍ら、エイトの指先が水を跳ね上げる。
「あの頃は俺も手探りでした。下層は八神家の令嬢を下に連れてこいの一点張りだったから。無理やり引っ張っていくようなことなんかできないし、どうにかイチカを懐柔する必要があったんです。だから俺みたいな一般人が選ばれたんだろうけど」
「一般人?」
「一般人ですよ。生まれが特殊だったわけでも、高等教育も受けたわけでもない。詐欺師でもなんでもないし」
イチカはエイトの横にかがみこむ。さあ、と通り抜けた風が、髪をさらっていった。
「……ねえ、どこからが嘘だったの」
学校では答えの得られなかった疑問を、もう一度。問いかける気になったのは、エイトが水底を見つめていることに気が付いたからだった。彼は掌を止めて、そうですね、と呟く。
「全部が嘘というわけではないけど、イチカに会ったときから隠していたことはいくつもありました。……例えば、REBのことだとか。イチカ、俺から逃げようとして海に落ちたことは?」
「憶えてるわよ」
イチカは思わず唇を尖らせる。しかしエイトに揶揄の意図はないようだった。一度うなずくのみで、手元に視線を戻す。
「どうにか助け上げたあとも、放っておけば目を覚ますことは知っていました。緊急時の呼吸確保はREBの機能のひとつですから」
エイトが本来の目的を達成し、上層へと移り住む際に、REBの体を求めるつもりであったことは聞かされていた。やがて自分のものになる体のことを熟知しているのは当然だろう。まま聞き流そうとして、イチカははっと息をのむ。
「じゃあ、あの、人工呼吸って」
「真っ赤な嘘です。必要なかったですよね」
ぱくぱくと口を開閉させたイチカに構わず、エイトは続ける。
「会う前から毛嫌いされているみたいだったから、どうにかこっちを向かせようと思って。キスのひとつでも必要かなと」
「きっ」
弾けそうな熱さを耳に感じた途端、エイトの顔を見られなくなった。大げさなそぶりで顔を背けても、頬の火照りは一向に引いてくれない。
「最低、最低……っ!」
顎を震わせて、叫ぶ。エイトが苦笑いを浮かべた。
「言ったでしょう、手探りだったって。悪いことをしたとは思ってますよ。それに限ったことではないけど」
ううんと空を見て、エイトは指折り数えてみせる。
「気を引くために試したことはいくつもありました。なるべく名前を呼ぶようにしよう、とか。嫌がられない程度に触れるようにしよう、だとかね。どれだけ効果があったのかはわからないけど」
「……覿面よ、馬鹿」
「それはよかった」
イチカは何度か新しい空気を吸い込み、吐き出して、やっとのことで顔から熱を追い払う。最後に小さく首を振って、ようやくエイトを振り返った。平素通りの顔に迎えられるのでほっとする。
広場に備え付けられた時計は、ちょうど十二時を示したところだった。自宅を出たのが十一時であったことを鑑みれば、警察が異変に気付くのもそろそろだろう、とイチカは思いを巡らせる。
一時間の猶予があれば、捜索範囲は格段に広がることになる。エイトとタカキを相手にかくれんぼを挑んだことは、まだイチカの記憶に新しかった。
黙り込んだままの数秒を、互いによそを向いたままで過ごす。口を開いたのは、エイトが先だった。
「俺はね、イチカ。ふたりとも、同じ場所にいたと思っていたんです。俺もイチカも似た傷を舐め合っていたんだって。だからお互いの欲しがるものは最初からよく見えたし、どうすれば心の深いところに踏み込めるかもわかっていました。でも」
うっすらと笑みを浮かべて、エイトは水面から手を引き上げる。
「気づけばイチカはちゃんとひとりで立っていた。そうして俺を引っ張り上げたでしょう。……敵わないはずですね。嘘なんかつかなくても、あなたはあなたのままで、綺麗な女の子だったんだ」
日を浴びて立つにふさわしい、と。――まるで、空を見るように言う。
その羨望が腹立たしかった。イチカは勢いよく膝を伸ばし、「あのね」と腰に手をあてがう。
「誰が私を立ち上がらせたと思っているの。家の中に閉じこもっていた私に、外を見せたのは誰? 下層のことを教えてくれたのは? 全部あなたでしょう、だから私は今、ここにいるんでしょう」
朝方から抱え込んだ鬱屈が頭にきたのだった。イチカの未来を、世界を、遠いもののように見つめた瞳が。他人事のように語った口が。
「私はあなたを手放したりしないわよ。どんな理由であったにせよ、あなたが私を見ていたことだけは事実だったもの。――ねえ」
聞いて、と告げる。
彼の目を見て。自分の口で。紛れもない、イチカの心を。
「エイト、私はあなたが好き。あなたとの今を守るためなら、これからだって怖くないわ。……議員の娘でも、アクエスの鍵でもない、たったひとりのイチカでいさせてくれるなら、ね」
言って、イチカは掌を差し出した。エイトは呆けたままそれを見上げ、ためらいの後に腕を持ち上げる。ふらつく手をつかみ取ると、イチカは力一杯に彼を立ち上がらせた。弱々しい笑い声がそのあとを追いかける。
「……参ったな。イチカは格好いいですね」
「当然じゃない。惚れ直した?」
「これ以上好きにさせてどうするんですか」
「勝負は私の勝ち、ってことにでもしておこうかしら」
昼食を手に集う人々で、広場は徐々に賑わいを得ていく。警察官の制服をその片端に見つけ、イチカは「潮時ね」と踵を返した。一つの場所に留まるのは得策ではないとミサキに教えられたばかりだ。
ミサキとユリの様子は確認できた。残る目的は、アクエスの根幹に繋がる情報の模索だ。足早に広場を後にして、人ごみに紛れられるように道を選ぶ。
迷いのないイチカの足取りに、エイトは訝しげに首をひねった。
「情報の在り処に心当たりでも?」
「一応ね。公の目に触れるようなところに、アクエスに通じるような情報を隠してあるとは思えないの。そういうところは大抵行政側が管理しているから、人に扱えるようなレベルの内容しか収められていない」
「都市の構造に関する内容は、人の手に負えないような場所にある、ですか。それで?」
「大樹に乗り込むなんてもってのほかね。取り押さえられるのがオチだもの。ほかにアクエス自身につながるような場所、と言って、私に思い浮かぶのは一つぐらい」
慣れ親しんだ裏道を縫い進む。雑草を踏みつけてたどり着いたのは、汀に打ち捨てられたトランスポーターの跡地だ。蔦や木々の中、白壁はひっそりと、眠りにつくように佇んでいる。イチカが茂みをかき分けるたび、蝶や羽虫が音もなく飛び去っていった。
壁面を伝いぐるりと正面に回り込む。固くロックのかけられた入口の脇には、手のひら大の端末が取り付けられていた。生体認証を求めるそれに、イチカは指を一本差し出す。
ぽおん、と、開錠を知らせる電子音。伴って、扉に取り付けられたランプが赤から緑へと色を変えた。エイトがはあと声を漏らす。
「本当に開くんだな……」
「そういえば見せたことはなかったわね。あなたたちが言うように、他のロックにも効くのかどうかまでは知らないけど」
試してみようじゃない、と歩を進める。
なだらかなスロープを下るにつれ、光源は徐々に遠くなる。闇に溶けるような天井に、取り替えられないままのライトがひっそりと息をひそめていた。管理者用にと取り付けられた扉、その際の認証端末に向かい合うと、イチカはエイトと目配せをする。
祈るような心地で装置に触れた。続く沈黙が、イチカの心臓を揺らしていく。
「だめ、かしら」
苦笑いを浮かべて、掌を離そうとしたとき。
『――いいえ。いらっしゃい、イチカ』
肩と背にわずかな重みを感じた。しかし身を固めた途端、その感触は風のように溶けて消えていく。イチカは呆然と振り返ったが、囁きの主がエイトでないことは明白だった。
「イチカ?」
「……ううん」
どうかしましたか、と問う彼に、言葉にならないうめき声を返す。半ば想像していた通り、“彼女”が語り掛けたのはイチカのみであったのだ。壁に取り付けられた端末がグリーンのライトを瞬かせたのはその直後だった。
――呼ばれている。そう悟って、イチカは扉の前に身を躍らせる。待ちかねたかのように開いた管制室への入り口を、きつく睨みつけていた。