Chapter5 「今」のためのこれから
「では、私たちはこちらで待機します。お帰りの際にはお声がけください」
「ええ。ありがとうございます」
 女子高生を無害な生き物だと考えているのは、いつかのエイトも警察官も同じであるようだった。イチカがあどけなく笑ってみせるだけで、引率の警察官はほっと息をつく。
 八神家の玄関前、たむろする警察に背を向けると、イチカはエイトを伴って自宅の門をくぐる。同時にそれとなく玄関先のセキュリティ端末を操作した。開け放ったのは部屋の裏側に設えられている窓の鍵だ。かすかな電子音を確認してから、ようやく扉を開く。
「掃除……なんか、していないわよね、当然」
 廊下の隅に積もった埃に顔をしかめる。掃除ロボットの起動を初めとした専らの家事はイチカに任されていたのだ。彼女が留守にしていたからといって、多忙な父や兄が掃除をするはずもない。
 ずぼらであることを自覚してはいても、汚れきった家で落ち着いていられるほどの神経は持ち合わせていなかった。イチカは渋面で廊下を渡りながら、いつか掃除を、と胸に言い聞かせる。
「約束の時間は?」
 問いかければ、エイトは自身の端末を確かめて首を振る。
「二十分はあとですね。コーヒーでも飲みますか」
「そんなに悠長にしていていいのかしら」
「構いませんよ。警察の方々を待たせる時間は変わらないし」
 けろりと言って、エイトは慣れた足取りでキッチンに踏み入っていく。迷いなくカップとインスタントコーヒーを探り出すと、湯を沸かし始めた。
「砂糖はスプーン一杯で間違いないですね。カフェオレが好きじゃないからミルクはいらない、と」
「な、なんで」
 椅子に腰を下ろしかけていたイチカだが、ぎょっとエイトを振り返る。教えた覚えもなければ、自分でコーヒーを入れたところを見せた覚えもないのだ。エイトはティースプーンを一振りしてみせる。
「イチカの好みは頭に入れました。必要に迫られていたから」
「それは、そうだったかもしれないけど」
 エイトがイチカの通学に付き合っていた数日間、彼に飲み物の用意を任せる機会はあった。けれども気を張っていたイチカが、あえて好き嫌いを口にしたことは一度としてなかったはずだ。
 とぷり、と水音。次第に漂い始める芳しい香りに、エイトは満足げにうなずいた。
「好きなものを食べるとき、おいしいって顔するでしょう。ここにいたときだけじゃない、下層に捕まっていたときも、なんなら今朝の食事だって。イチカのいいところです」
「……顔に出てる?」
「作る側は幸せですね」
 ふたつのカップのうち、ひとつをイチカの前に、もうひとつを自分の手元に。エイトは一口だけコーヒーをすすって、うん、と微笑んだ。
「ああ、イチカ。下層でイチカに出していた食事、だれが作っていたと思います?」
「だれがって……ドレスの採寸をしたり着替えをさせたりした、あの人たちじゃないの」
 捕らわれていたイチカを、まるで道具を見るかのような目で見つめていた女性たち。苦い記憶がよみがえってイチカは唇を尖らせる。
 一方で、エイトはからかうように首をかしげてみせた。
「俺です」
「な、えっ!?」
 口元まで運んでいたカップを、イチカはすんでのところでテーブルに戻す。けほ、とむせ返ってから、コーヒーを飲む前でよかったと胸を撫で下すことになった。思わず小刻みに首を振る。
「う、嘘よ」
「本当ですよ。こんなことで嘘なんかついてもしょうがないでしょう」
「だって、そんな、おいし……」
 言いかけてはっとする。即座に口をつぐんだイチカを見下ろして、エイトは満面の笑みを浮かべた。
「なんです?」
「なんでもないわ。なにも言ってない」
「強情だな……顔に出るって言ったばかりなのに。うれしかったですよ、運んだ俺に文句をつけながら、食器の上はきちんと空にしてくれるんだから」
「それは、ただ、勿体なかったから。ご飯に罪はないもの。栄養管理は大事だし」
 イチカの言い訳に、エイトが肩を震わせる。声を堪えたまま笑い終えたところで、はあ、と息をついた。
「確かに、こっちの食事もひどかったですしね。固形栄養食かパンかの二択なんて」
「なによ、ケチつけようっていうの」
「あれじゃつけたくもなるでしょう。どうせ聞かないから、言わなかったけど」
「う……」
 家で食事をとる人間が自分しかいなかったのだ。楽に逃げたのは確かだった。二の句が告げなくなって、イチカはカップの水面を睨む。エイトが目を細めた。
「俺が作ってあげられるならいいけど、そうはいきませんし。食事は大事にしてくださいね。寂しいようなら、一緒に食べてくれる人を見つけるとか」
 ひっかかった言い分がある。イチカはぱちりと目をしばたかせた。
「どうしてあなたじゃいけないの」
「どうしてって、……一緒にいるわけにはいかないでしょう。これからどうなるかはともかく、イチカが日常に戻っていくなら、そのときは」
 下層の人間は下層へ。そしてテロリズムに加担した者は。言外に含まれた未来が、イチカにもありありと見て取れた。
 目を向けさせられたのは、すっかり受け入れてしまった日々が、日常とは対極の位置にあったことだった。エイトの目的がイチカを下層に引きずり込むことであった以上、上層と下層の協約などはったりでしかなかった。騒動が落ち着くようなことがあるとすれば、そのとき自分は、エイトは――視線を落とせば、コーヒーに映りこんだ娘の顔が、沈鬱を浮かべているのに気づいてしまう。
「……そんなこと」
 力なく言ったのが会話の切れ目だった。見計らったかのような携帯端末の振動が、イチカを我に返らせる。
 着信元がユリの名前であることを確かめて、端末を耳にあてがった。かすかな環境音を聞き取り、イチカはエイトとうなずき合う。
『イチカ? 到着しました。待たせていたらごめんなさい』
「ううん。周りに人はいなかった?」
『大丈夫。玄関には警察の人たちがいたけど、今のところ、裏には誰も』
 早足で居間を横切り、家の裏にあたる一室にたどり着く。窓からもぐりこんだユリの姿をそこに認め、イチカは深く息をつく。
「ユリ、よかった」
「っ……イチカ、」
 身の埃を払うのもそこそこに、ユリはイチカを抱きしめる。
 わずかに震える腕、堪えられた嗚咽を悟れば、苦しいと笑うことはできなかった。イチカは彼女の背中に手を回して、うん、と答える。
「ごめんなさい……ごめんなさい、イチカ。私たち、一緒にいたのに。イチカが捕まるすぐ前まで、一緒に教室にいたのに、なにも……!」
「いいの。ユリたちのせいじゃない。ふたりが怪我をしていたら、私はそのほうが苦しかったもの。……だから、ね、ユリ。よかったって言わせて」
 無事でよかった、と、また会えてよかった、を、互いに伝えるために、彼女に電話をかけたのだ。もう一度顔を合わせて、いつものように笑いあうために。
 ユリは鼻をすすって、イチカからゆっくりと身を離す。涙の名残を拭いきれないまま、不恰好な笑みを形作った。
「おかえりなさい、イチカ。会いたかった」
「……うん、私も」
 イチカが下層に連れ去られてから、時間にすれば二週間と経ってはいないのだろう。しかしその短期間のうちに、上下層の関係も、イチカの日常も、まったく色を変えてしまっていた。
 だからこそ変わらないものを求めたのだろう、と思う。イチカのことを、まだイチカと呼んでくれる相手を。
「学校はどう? みんなは元気にしてる?」
「もうぼろぼろ。校舎が使えなくなっちゃったから、違う学校にお世話になっているの。みんな元気よ、むしろ緊急事態を楽しんでいるぐらい」
「へこたれるような生徒なんかいないものね、あそこには」
 ユリはくすくすと笑って、涙を追い払うように瞬きをする。
「あまり長話はしていられないのよね。イチカに会わせろってミサキがへそを曲げるころだわ。ここで時間を稼げばいいの?」
「ええ、あと一時間ぐらい……そうすれば、私たちも遠くまで行けるはず。私からの伝言は端末に送っておいたから、外の人たちにばれるようなら聞かせてあげて。面倒ごとを押し付けてごめんなさい」
「気にしないで。イチカのお願いだもの」
 イチカの掌を両手で取り上げて、ユリは祈るように目を閉じる。
「また会える?」
「もちろん」
「なら、……いってらっしゃい」
 ありがとう、と最後にユリを抱き寄せて、彼女と入れ替わりに窓を飛び出す。エイトが続くのを待ってから、足音を立てないように家を後にした。
 友人たちの力を借りて、警察の目をかいくぐる――脱出計画を立てたのは昨日のことだった。
 目的は多数。アクエスにかかわる情報の収集と、それに通じる情報端末の捜索、そして友人の無事の確認だ。自身の端末を取り戻したイチカは、翌日の目的地を定めるなり、ミサキやユリに連絡を取った。ミサキが脱出ルートの案内を、ユリがイチカの身代わりを務めることで、一日の自由は約束されるだろうという見立てである。
 数日間の宿泊のため、自宅に荷物を取りに行く。他人が私物に触れることには耐えられない――それが女子高生の我がままとして受け入れられたのは幸運だった。
「イチカ、こっちこっち」
 あらかじめ定めた集合地点は、八神家から徒歩数分ほどを離れた十字路にあたる。黒のキャスケットをかぶったミサキがひらひらと手を振った。
「まずはバス停までね。ミサキんちの警官もそうだけど、お巡りさんの巡回も怖いから、あんまり住宅街はうろうろしてられないかも」
 ミサキは猫のように身を翻し、脇道へと歩を進ませる。近所であるはずの地域も、通学以外の外出を避けがちなイチカにとっては、未知の領域に満ちている。おとなしくミサキに従った。
「やっぱり顔も出回っているのかしら」
「そりゃそうだよ。ニュースでも散々。友達がテレビ出演なんて鼻高々だよね、サインもらておこっか」
「相変わらずね、ミサキ」
「たった二週間でどう変われっていうんだよう」
 誘拐された議員令嬢の友人、という格好の的を、報道が見逃すはずもない。当然彼女らのもとにも取材班が詰めかけたのだろう。昨晩のうちにふたりの心労を労ったイチカに、しかしユリは苦笑して、ミサキが追い払ってしまったと答えたのだった。
「まあまあ任せといてよ。今の今まで補導をかいくぐってきたミサキさんの、面目躍如ってなもんだからさ」
 三人分の乗車券を切り、循環バスに乗り込んだ。
 平日の昼前、乗車客の少ない車内。無関心に保障された空間で、あえて若者たちを気にかける者はいない。間延びした発車のアナウンスを聞きながら、イチカは都市の人波を眺めていた。